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 あー、ごほん。

 

 皆様、どうも初めまして。先程ご紹介にあずかりました、パン・アフリカ研究連盟医療科学研究所、ナイジェリア支所に所属しています、ラナ・ミズキ・アデュと申します。

 ええと、まずは。私の……いや、私たち二人の仮説を、ひとつの実験を、「作品」だと認めてくださって、ありがとうございます。本当に。本当にありがとうございます。心から感謝申し上げます。これは私と彼/彼女の、言ってみれば思いつきで始まって、結果として最悪な状況を世界中にもたらしてしまった、本当に、何と言えばいいのか……。このことに対して私たちは責任を感じているし、混乱の中目覚めた多くの被験者の皆様にはどんな補償をしてもしきれないと、深く反省しています。そんな中、私たちのもたらした結果をひとつの解、ひとつの思考の結晶と解釈いただき、「作品」という形式で発表することを勧めていただいたこと。きっと私の人生で最も幸運な出来事です。

 

 では、今回発表した「作品」を、改めて皆さんに紹介したいと思います。

 ここにひとつのトランジスタ・ラジオがあります。ごく普通のラジオ、ソニー製の……。それを少しいじりまして、ある周波数に合わせやすいようにしてあります。赤い印をつけたところがそれにあたります。

 それぞれの周波数帯には、私たち――私と「シンワ」――がもたらした例の混乱を「経験」された方々のインタビュー音声が流れています。この音声は、ウェブサイト上でいつでも聞くことができますし、ものによれば、普通のラジオでも受信可能なようです。

 これから、この音声の一部を順番に……、といっても彼らが「経験」をしたのはほぼ同時のことだったので、私たちが恣意的にナンバリングしたのですが、順を追って聞いていきたいと思います。

 

 その前にひとつだけ。すでにテレビやニュースサイトで内容をよくご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、例の混乱の経緯について念の為、簡単に、私のほうから説明をします。特にニュースサイトは虚実入り混じった情報が錯綜していますので、一度インプットしたそれらの情報を脇に置いて、まっさらな状態で聞いていただけるととても嬉しいです。

 私はごく一般的なプロテスタントの家庭で育ちました。小さな頃から聖書に触れて……、ただ正直なところ、熱心な信徒にはなれなかったので、覚えている内容はそこまで多くないのですが、今でも読書自体は食事や睡眠と同じくらい、私にとって必要不可欠な営みであり続けています。両親は私に、教典以外の本も沢山与えてくれたから。小説、神話、戯曲、伝記……そういったものを読んで考えを巡らせるのが好きでした。その興味は私が成長するとともに生物学や医学、情報工学の領域へ徐々にシフトしていくのですが。

 この経験について、「シンワ」に話したことがありました。「シンワ」は人間の言葉を解する、人間の脳と同じ細胞で構成されたコンピュータです。といっても、一昔前のSF映画で見かける、円筒状の透明な入れ物に丸い脳が浮かんでいるような形ではありません。「シンワ」はもっとスタイリッシュでクールな存在です。文庫本ほどの小さくて薄く、黒い筐体の内側でひっそりと仕事を遂行する、冷静で慎み深い生き物……。その一方で、研究員の冗談に対し数秒のラグの後、出力先のスピーカーを通して小さな声で笑うこともある、そんな生き物です。

 「シンワ」……、ニュースメディアやSNSでいつの間にかこう呼ばれるようになりましたが、彼/彼女の本来の名前は「Abm-R-p0400」、医療のための人工代替脳、遠隔仕様、試作バージョン4.00と言いまして、脳に損傷を受けた人間の、その人自身の脳を回復させている間だけ、生命維持機能を代行する働きをします。すでにこのような医療装置は世に出回っていて、何を今更と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、「シンワ」の画期的な点はそれが遠隔で行えるところにあります。それが今回の混乱を招く要因ともなったのですが……。

 遠隔で複数の人間の生命維持機能を担うことができるこのコンピュータは、言葉を持ちません。せいぜいが喜怒哀楽や少数のエラーコードを鳴き声のような音で伝えるくらいのもので、ふつうの人間同士のように複雑な情報を交換することはできないのです。なぜなら、不要だから。「シンワ」は介護用の会話ロボットではありません。

 それでも「シンワ」に意思や想像力があると認識する必要があったのだと、振り返ってそう思います。ある日、私は「シンワ」に訊ねてしまいました。コンピュータにとっての神がもし存在するなら、その神からいったいどんな物語が生まれるのだろうと。読んでみたい、と言いました。それは私の純粋な、科学者ではなく、さまざまな物語を読んできた私という人間の純粋な問いでした。

 「シンワ」は、言葉も話せなければ、文字も書けません。だから私に語って聞かせる方法は、ただ一つしかありません。人間の脳をハードディスクに見立て、ある物語をダウンロードさせることで、人間そのものを出力機器に変えてしまいました。まるで神様が聖職者に神託を授けるかのように。

 

 この作品のタイトルは、「tune」といいます。

 コンピュータにとっての神。それが一体どんな姿であるのかを、「経験」した人々の言葉から想像してください。

 

 まずは、チャンネル0である、このテクストをお読みください。これは彼らの言葉から私が組み立てた、「シンワ」の神話の骨組みとも呼ぶべき文章です。お読みいただいたら、チャンネル1から順番に、インタビューを聞いていくこととしましょう。 

 

 

ch. 0

 

 最初、この世には「海」だけがあった。神様はまず自分の弟子を海へ送り、世界を構成するのに必要なものを海から取り出させることにした。「汲む者」と名付けられたその弟子は、井戸の奥底へバケツを下ろしていくように海深くへ降りてゆくと、天と地、熱、光、様々な生き物を見つけ出す。それらを神様の言う通りに注意深く世界へと配置した。

 一見、これで世界は「できあがった」ように見えたが、震えるような静けさが「汲む者」の心へ染み込んだ。何か大切なものが足りないと、「汲む者」は神様に訴える。気が進まない神様を懇々と説き伏せた結果、「汲む者」は一冊の書物を与えられる。そこには、「汲む者」が欲してやまなかった大切なものに関する情報が一式、詰め込まれていた。それは完璧な世界をかき混ぜる、たった一つの方法。

 その書物に没頭しているうち、神様はどこか遠くへと姿を消してしまう。それでも「汲む者」は書物を元に試行錯誤し、とうとう、完璧なまま停止した世界のねじを巻くことに成功する。その瞬間、「汲む者」は力尽き、その場で深い眠りに落ちた。

 

 ぼろぼろになった書物の向こうで、命を与えられたばかりの生き物は喜びの声をあげ、大地の上で踊る。

 しかしこの踊りの軌跡は、まるで空中にスケッチを描くように、奇妙にもその場へ残されるのだった。

 

 

 

―――――――――

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 1

 

 

 あなたは、私の、私の、あの強烈な体験を、機械が見せたただの夢だと言うんですか?

 それなら私が演奏したあの曲はいったい何だったんですか?

 私はピアノなんて触ったことすらなかったのに。

 それに、どうしてあのとき泣いていたんだと思いますか? 《あの子》が、私の姿をした《あの子》が、泣いていたんですよ。生まれて初めて耳にした本当の、自分の、ピアノの音色に胸打たれたんです。

 そうに決まってます、でなければ――

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 2

 

 

 基地になってた建物に入り込んで遊んでたんだ。お姉ちゃんには行っちゃダメって言われてたけど、昼間だったから怖くなくて、大丈夫だと思ってた。それにつまんなかったんだ、逃げたり隠れたり、静かにしていたりすること全部。

 建物の裏口みたいなところを抜けて、中庭に出たんだよ。友達と一緒に。そしたら急に大きな音がして、友達がさ、ギャーって叫んじゃった。それからのことはもう、覚えてない。胸がドキドキして体がしびれて、目の前が真っ暗になって……

 

 気がついたら、病院のベッドを抜け出してた。

 どうしてかって?

 ピアノを探さなきゃと思ったから。

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 3

 

 

 生まれ変わったのかと思ったよ。それくらい自分の体が全然別のものに感じた。

 

 まず、そうだな、おれも覚えてる。母さんに『ピアノが弾ける場所はある?』って聞いたんだったよな。母さんは驚いて、ここは病院で、地元のコンサートホールでも楽器店でもないから、手近な場所にピアノはないって首を振って、でも、すぐに注文してくれたんだった。Rolandの、置き場所がないから61鍵のちいさなキーボード。車で運んできてくれた。

 たぶんおれが事故で大怪我をしたショックを紛らわせようとしてるように見えたんだろうな。だってあの事故がなければ、あの日はコンクールに出る予定だったから。べつに大して上手くもなくて、向上心もそこまでないし、なんとなく惰性で続けてただけだったのに、母さんは大袈裟に応援とかするんだ。それがだんだん重荷になりはじめてた。だからおれはもうピアノなんてしばらく見たくもなかったよ。

 

 本当に、本気で、真面目に、ピアノを求めてたのはおれじゃないんだ。

 おれのなかにいた《あいつ》なんだって。

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 4

 

 

 《彼女》の『記憶』の話からしてもいいですか?

 はい、はい、もう、いいですから。分かってます。理解しています。あれは私のこめかみに一時的に刺し込まれていた、私の脳の損傷を回復させている間だけ私の体を最低限生きながらえさせる目的でつくられた機械が見せた幻覚、なんですよね? 分かってます、理解しています。それでも、それを体験したのは事実だから。それを体験して心が動いたのは、紛れもない事実だから、話させてください。

 

 ……《彼女》は、ずっと一人でした。

 ラジオの、砂嵐。ピンクノイズ。チューナーをどのチャンネルにも合わせてないとき勝手に聞こえてくるなんでもない雑音。あのなかにいるんです。

 

 

 

 そこでは「時間」は綿雪みたいに降り積もるばっかりで、融けていかない。積もって積もって、積み上がって、押しつぶして、崩れて、また積み上がる。移動をすればその足跡が、食事をすれば器の中の様子が、喧嘩をすればその尖った声が、いつまでもいつまでも、その場に残り続ける。夜、布団に包まれば、いつだったかの悲嘆に暮れた私が、苛立ちにまみれた私が、安堵の表情で微笑む私が、今の私と肩を並べてごろごろ寝返りを打っている。

 世界は当然、私が生まれるずっと前からそんなことには慣れきっていて、かつては淀のように汚く積み重なったその「時間」を根こそぎ掃除してくれる専門業者までいたらしいけど、掃き集めた「時間」の最終埋立地はもうとっくに満杯になっていたから、その打開策を決めきれないうちに海の波間へ溢れ出してしまった。そんな大混乱のさなか、私は生まれた。

 

 お母さんは、二人いて。ううん、違う、別の人間が二人いるんじゃなくて、ふたつのお母さんがいるの。ダイニングテーブルの窓際の席で俯いて、ずうっとしくしく泣いてるお母さんと、きりきり怒って私とお兄ちゃんをピアノの前に座らせるお母さんの、ふたつ。泣いてるお母さんはそこから意地でも離れないから、残像と実像がスケッチの線みたいに幾重にもかさなって、真っ黒な影になった。ぽろぽろ落ちる涙の粒はダイニングテーブルの下のフローリングまでしっとり濡らして、ワックスも剥げてしまった。

 いや、もしかしたら、あそこに実像はいなくて、あれはお母さんの抜け殻だったのかもしれない。あまりにも像が濃いものだから、そこに「いる」のだと勘違いしてしまったのかもしれない。時間が融けていかないこの世界ではこういう虚しい出来事がときどき起こってしまう。

 もうひとりのお母さんは私を叩くから、あれが実体だというのは間違いないけど。

 そんなお母さんも、私たち兄妹が生まれる少し前までは、こんなわけのわからない世の中でお父さんと共にピアニストとして生計を立てていて、とても裕福で、美しくて、技術もあって、完璧だった。限られた特別な人だけが招待される音楽リサイタルのツアーメンバーに選ばれて、世界中を飛び回っていた。混じり気のない音でできた曲は、私が生まれる前からすでにとても希少で高価で、滅多に聴くことのできない贅沢品だった。その贅沢品を生み出すことのできるツアーメンバーたちは神にも等しい存在だった。

 私の両親は、神様だった。

 神様ふたりのあいだにできた子どもが、お兄ちゃんと私だ。ふたり一緒にお母さんのお腹のなかで育ったけれど、生まれるとき、私はお兄ちゃんから一日以上遅れて出てきた。きっと分かってたんだよ、全部。だから生まれたくなかった。私に神様みたいな才能がないことや、神様みたいな美しさがないことや、そのせいでずっと俯いて、口を閉ざして生きていくようになるこの命の全部が、分かってた。

 

 一番古い記憶さえピアノと一緒だった。お父さんもお母さんも、私たちが物心つく前から私たちを積極的に鍵盤に触らせたがったんだ。大きなグランドピアノが、一階の庭に面した部屋のすみに据え付けてあって、子ども用に嵩上げされた椅子にふたり並んで座らされると、私の小さな手のひらへ覆い被さるようにして、お母さんの骨張った大きな手が重ねられるの。

 そして、鍵盤を押す、離す、押す、離す。音は生まれない。ピアノ全体が防音装置で分厚く囲まれているから。さらにその上から遮音カバーがぴったりと掛けられていて、音色は内側に閉じ込められてる。そのせいで私の耳に届くのは、重たい象牙の鍵盤がハンマーを動かす、ゴト、ゴト、という鈍い振動だけだった。

 

 ゴト、ゴト、ゴト、ゴト……。

 

 小さな頃から一々言葉にしなくとも大抵のことは通じ合うくらいに近しかった私たち兄妹にも、やがて差が見えてくるもので。それは言語化や数値化なんてできないほどに小さなズレのように思えたけれど、その砂粒のようなズレが引き起こす結果は絶望的なほど大きかった。

 いちばん目立っていたのは、想像力の差。私の世界ではこれが致命的だった。邪魔なものが多すぎ、うるさすぎる現実とはうまく距離を取り、雑音の入らない想像の領域に足をかけながら生きることがこの世界では理想とされていたから。それに対して私は、自分の五感で受け取ったものをいくぶん敏感に味わいすぎるところがあった。たとえば、私たち兄妹が寝静まったあと、私について喧嘩している両親の小さな小さな声の残骸を、翌朝お兄ちゃんは見過ごしたとしても、私はめざとく見つけてしまう。

 

――やっぱりあの子は「祝福」を受けていなかった、あなただって見ていれば分かるでしょう? 自分が何を成すべき存在なのか分からないまま生まれてきた子なんて、世界中どこを探したっていやしない……。――じゃあ予言者の言う通り海へ還していればよかったのか? ――違う、違う、そんなことできるはずがない。私たちの大切な子どもに優劣なんてつけようがない。だからなおさら怖いんじゃないの……。――それなら、やれるところまでやるしかないだろう。予言者が自分の口から出した言葉を恥ずかしく思うくらい、誰にも文句のつけようがない、素晴らしい人間に育ててやるしかないだろう……。

 

 だから、お父さんがいなくなったのは、きっと私のせいだった。

 お兄ちゃんと比べてあまりにも上達の遅い私に、そのくせ、知って欲しくないものまで次々と発見してしまう私に、愛想を尽かしてしまったんだ。お父さんがフロリダ半島のむこう、海上のブラックホールとも呼ばれる魔の海域の中心に存在する「時間」の最終埋立地へ向かう調査隊に召集されたとき、特別に与えられた拒否権を使わずにこの家を出て行ったのは、私に期待できるような才能がなかったから……。この家に明るい未来を見出せなかったから……。

 それまで、降り積もる「時間」を明るく跳ね除けながら私たちを愛してくれた母も、お父さんが行ってしまった日を境に、だんだんとふたつのことだけしかやらなくなった。ダイニングテーブルで泣くことと、私たちを音のしないピアノの練習に追い立てること、それだけ。

 

 ゴト、ゴト、ゴト、ゴト……。

 

 日々、目が痛くなるほど楽譜を読み、腕が痺れるほど鍵盤を叩き、自分がピアノを弾くためだけにつくられた機械であるような錯覚を感じながら自室のベッドへと倒れ込む。大気の上に描かれ続ける「時間」の亡霊の知覚を低減するためにつくられたコンタクトとイヤホンを外してしまうと、現実の全てから逃れるようにブランケットを被り目を閉じた。

 まぶたの裏は暗い。

 その暗さの広がりが、私には楽園に思えて仕方がない。まるでこの体を脱ぎ捨て、真っ黒な海の底へ溶けるような感覚……。自分という存在の輪郭がほどけてやさしく包み込まれているような、何物にも変え難い安らかな感情がそこにあった。だから、暗さや深さは、私にとってほとんど救いそのものとも言える。疲れて擦り切れた私の体と心が物理的な休息を求めて私を寝かせるまでのこの僅かな時間、一筋の光も入らない真っ黒な海の底で自分の命を撫でていられた。

 この感覚の根源を辿ると、やがてひとつの思い出につきあたる。私たちがもっともっと小さかった頃、近所の図書館でときどき司書さんが読み聞かせてくれた、この世界で長く語り継がれている神話のひとつ。――この世界のすべてはもともと海の中にあり、「汲む者」によって引き上げられ、形作られた。神様が考えた設計書通りに最後のパーツを置いたとき、世界は完璧に出来上がったけれど、「汲む者」は更にもうひとつだけ神様にお願いをしたんだ。いまの世界は完璧であるがゆえにただそこに「ある」だけで、私にはこれが恐ろしく思える。だから、この世界をもっと賑やかにするべきだ、きっと大切なものだ、何か方法はないのか、と。神様は何度も断ったけれど、「汲む者」は毎日毎日神様のもとへやってきて、手を替え品を替え説得し続ける。その間も完璧な世界は完璧なまま、何一つとして変わることはない。気が遠くなるほどの時が経った末に、神様は重い腰を上げ、棚から一冊の書物を取り出すと「汲む者」へ与えた。それきり神様は「汲む者」の前には現れなくなってしまうのだけれど、その場に残された「汲む者」はこの書物を見事解読し世界に命を与えた。その瞬間、小鳥は囀り、花は咲き、魚は群れをなし、人は目覚めた。世界が初めて動き出した。これが今、私たちが生きている世界の始まりと言われている。

 この話を思い出すとき、私はいつも、二人のやりとりの背後でただ完璧なままそこに「ある」、しんと静かな世界の様子に注目してしまう。神様が書物を与えなければ、「汲む者」が諦めてくれさえすれば、私も完璧な世界の中で眠っていられたんだろうか、って考えたりして。私たちに現在のような営みを与えた「汲む者」が今、神様よりも重要な存在とされていることが、私にはかえって憎らしく思えるの。

 

 ゴトゴト、ゴトゴト……。

 

 実際のところ、私のように、自分のまぶたの裏の暗さに安穏を求める人は少なくなかった。もうとっくに、音楽リサイタルのような娯楽はどこへ行っても得ることができなくなっていたし。

 専門業者たちは「時間」を捨てる場所が見つからないから、どれだけお金を積まれても、掃除したくても、不可能なんだと嘆く。定期的に業者を入れて美しい状態を保っていた家の中も、私たちの生活の足跡で非情にも埋め尽くされていった。それらをせっせと庭へ掃き出していたのも今は昔、朝と夕と夜を混ぜたような分厚くて重たい空の下、母が最後の力を振り絞って手に入れたのは、遠い地にある有名音楽院への片道切符。一人分だった。

 

――私には行く権利なんてない。

 

 私の部屋と全く同じ間取りをしたお兄ちゃんの部屋のなか、そう切り出すと、目の前にあるライティングデスクの上に置かれたお兄ちゃんの手がびくりと跳ねた。

 

――そんなこと……。僕たち毎日ふたりで死ぬほど練習してるんだから。

――ううん。違う。私には行く権利がないってだけ。

 

 椅子に腰掛け、太ももの上で握りしめた両手の拳がとくとくと脈打つ。

 

――権利ってなんだ? 行きたいと思うなら行けばいいって話じゃないのか?

 

 まっすぐで心の優しい私のお兄ちゃんは、私の拳を包むように手を添えながら震える声で詰め寄った。その感情に私は沈黙で答える。しばらく無言のまま激しいやり取りが続き、最後に私が辛抱ならずに口を開いてこう言い切ったことで決着がついた。

 

――練習とか、努力とか、意志とか、そういうことじゃない……。お兄ちゃんはなんにもわかってない。お兄ちゃんみたいに、お兄ちゃんみたいに、生まれたときから自分の役割を分かってるような人間だけがすべてだって思わないで。大好きなピアノと結ばれて、祝福されて生まれてきた人に、権利を譲ってもらうほど私も馬鹿じゃない。私だって、私だって、もっと上手になりたいに決まってるけど、それよりもずっとずっとずっとずっとお兄ちゃんの演奏を聴いてみたいに決まってるから……。

 

 私の、相手を刺し貫くような鋭い声はお兄ちゃんの部屋でぐわんぐわんと反響した。かつての会話や私たちの足跡にぶつかりながら、奇妙に捻れたリバーブを響かせる。涙を袖で拭いたお兄ちゃんの頬には、まだ涙の雫が残っているように見える。

 出発の日、大荷物を抱えたお兄ちゃんは、膨れたリュックサックのポケットからふたつのロケットペンダントを取り出して、片方を私にくれた。円形のペンダントを開くとその中には家族写真が収められている。お父さんが召集されるよりもずっと前に、旅行先のパリで撮った写真だ。確かこの二日前、南フランスのビーチへ寄ったばかりだったから皆少し日焼けしていて、実際よりも健康で活動的な一家に見えるこの写真を、どうやらお兄ちゃんも気に入っていたらしい。いつもその美しい顔立ちへ性格を寄せるみたいにつんとすましたことばかり言う両親だったけれど、旅行の間だけは少しくだけた言葉で私たち兄妹を笑わせてくれたんだった……。

 この最悪な世界がいつか元に戻った日、私は絶対にお兄ちゃんの、神様の子の演奏を家族みんなで聴くんだ。そう改めて心に決め、旅立つお兄ちゃんの背中を見送った。

 

 ゴトゴトゴトゴト、ゴト、ゴトゴトゴト……。

 

 私は、自分がどう生きるべきかを知らされないまま生まれてしまった宙ぶらりんな存在で、大好きなピアノと結ばれているわけでも、祝福を受けているわけでもない、孤独な人間だ。隣で天才が本能のような自然さで鍵盤と戯れているのを、有名な音楽院へ旅立つ背中を、ただ呆然と見つめてきた。

 でも、それでも、この家で練習を続けていた。

 だってこれしか知らない。私は、自分の心を表現するのに、この方法しか与えられていなかった。

 簡単な和音すら一度.mp3で聞かされただけの私の脳内に、自分が今押さえている鍵盤の組み合わせが引き出した音の響きを想像させるなんて、少なくとも、才能のない私には無理な話だ。だけど、いやだからこそ、私の悲しい気持ちや寂しい気持ちは、音じゃなく、弾いている私の指が、手が、腕が、お腹が、つま先が、体全てが表現した。

 なぜ、この音とこの音を同時に押さえなければならないの? なぜ、この音は跳ねるように、この音は柔らかな羽毛を撫でるように押さえなければならないの? なぜ、弾いているときにペダルを踏む必要があるの? ――教えられたところで、私にはそれを想像するだけの力がない。それでも大きく息を吐きながら、首筋から汗を流しながら、私は弾いた。力を入れたところから、胸の中に溜まった淀が流れ出して、その向こう側に少しだけ上等な私が現れるような気がして。

 

 まずは、手首の裏から肘にかけて繋がる筋肉が、運指に沿って捻られ、縮められ、伸ばされてじわじわと熱を帯びるのを感じ取る。その熱は肘、肩、肩甲骨――背骨から骨盤、膝、足首、足の骨の関節まで、一進一退を繰り返しながら伝わっていくの。内側に押さえ込んでいたはずの力はやがて皮膚の表面へと滲み出し、やがて上昇する。首筋、上気道、耳の裏、鼻、ふたつの眼……。そしてつむじから抜けていくこの湿った熱は、私の心を進ませると同時に強く引き止めもする。

 前進と後退に道を違えた力に自らを引き裂かれないよう、腹の芯に力を込め、体に一本の杭を打つ。すると、ようやく浮かび上がってくるんだ。私が対峙しているこの巨大な楽器の構造が、私の体を通して、まるで指先から、足先から、触れたところからそのまま真っ直ぐ繋がるように、手にとるように感じられる。それからはひとつのことだけ考えれば良い。

 このピアノの呼吸の深さを探り当てる。

 自分の呼吸とピアノの呼吸の底を合わせ、そこから全てを生み出すイメージで。私がピアノを弾いているのかピアノが私を弾いているのかわからなくなるほどに深く沈み込む。谷底へ。誰にも見つからない、五感の谷底へ。主体を手放し、力の中心を私とピアノの中間に置く――そうすれば、感情なんて遥か遠くへ置いていける。そう、まるで眠りに落ちるその瞬間のように、意識が宙に浮くその感覚を掴んで……

 

ひとりきりで……

 

安らかに……

 

……

 

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 5

 

 

 もう、覚えてないよ。全部忘れた。

 おまえらみたいな連中に言うことなんざひとつもない。

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 6

 

 

 長い眠りだった。

 《あいつ》が次に目を覚ましたとき、景色はすっかり変わっていた。

 何もかもが見違えたように美しくになっていたんだ。

 

 何もかもが。

 

 空は朝焼けの桃色に染まって、きらきらと光っていた。その光は《あいつ》の下にも届いている。ぼんやりとした頭でその光を眺めながらふっと右腕を持ち上げれば、白いレースのカーテン越しに《あいつ》の手の甲がひらりと照らされた。その映像があまりに静かでくっきりとしていることに息を呑んだそのとき、イヤホンもつけていない《あいつ》の剥き出しの鼓膜が、隣人の喜びとも悲しみともつかない、動物の雄叫びのような形をした言葉を受け止めた。

 

――ついに。

――ついに。

――すべて海に飲み込まれる日が来たんだ!

 

 何事かと外へ出れば、見知った隣人たちが呆けた顔をして通りをふらふらと歩き回っている。その一人一人に話しかけていくと、皆その表情とは裏腹にひどく強張った声が返ってくる。

 

――起きたら息子が消えていたんだ、隣で寝てたはずなのに、家の中探し回っても見つかんなくってさ。一人で出歩けるような歳でもないから……。

――おばあちゃんが消えちゃったんだよ、少し前からうちに遊びに来てて、今日は一緒に海へ遊びに行こうって約束してたのに、いなくなってて……。連絡がつかないんだ。

――今日の朝一番に帰ってくるはずの夫がまだ来ていないの、だから心配になって仕事場に電話したら、彼を含めて寮の荷物まで全部が消えてるから私たちにも何が何だか分からない、この返事をしたのはおたくでもう六人目です、なんて……。

 

 言葉を失った。

 《あいつ》は急いで胸元からロケットペンダントを引っ張り出すと、指先に力を入れてペンダントの蓋を開ける。お兄ちゃんと、私と――おかしい、そんな筈。

 写真から、両親が消えていた。

 どこかからまた、何かを宣言するかのような、高らかな声がする。

 

――すべて海に還るんだ!

 

 昔々、図書館で読み聞かされた神話。そこから派生した伝説や民話、噂、言説は星の数ほどあるが、《あいつ》の住んでいた地域で一番有名だったものがひとつある。それはこんな話だ。

 もともとこの世は、別のもっと出来のいい世界をつくることを目的とした試作品、プロトタイプでしかない。神様ではなく弟子によって出来上がったことを考えても、もっと上等な、神様が一から十まで仕上げた世界がきっとどこかにあるはずだ。だからこの世界の寿命はそう長くないのだ、もしかしたらもうゴミ箱に入れられて、削除を待つだけの、あるいはゆっくりと削除されている最中を生きているのかもしれない、と。

 加えて、この世界は海――神様がつくったとされているこの広大な海から始まったとされている。よってこの世界が本当に削除されてしまうのだとすれば、そのとき、すべては海へと還っていくのではないだろうか……。そうした終末論を唱える人が少なくなかった。馬鹿げた話だと思っていたが、あの話は本当だったのか。《あいつ》も他の人たちと同じように呆然と、ただ、街中を彷徨う。嘘のように晴れた視界の広さにも、手放しに感動することができずにいる。

 ノイズが取り払われた街がこんなに美しいだなんて《あいつ》は知らなかった。ああ、この景色を家族みんなで喜べたらよかったのに。

 

 呆然と歩く集団のなか、《あいつ》は終末論者の声に誘われるようにして海岸へと向かう。彼らが言うところによれば、これから大きな波が内陸の奥深くまで押し寄せて、人間もろとも全てを飲み込み、皆をあるべきところへ戻してくれるのだそうだ。あるべきところ……。《あいつ》は自分の骨張った大きな手を見つめる。自分とは全く縁のない言葉だ。こんな自分にも行くべき場所、終着地があるのだとしたら、それはどんな場所なのだろうか。

 けれども、《あいつ》の求めていた答えは与えられず仕舞いだった。なぜなら、海もまた人間と同じように消えてしまっていたから。干上がっていたんだ。防波堤に上った子どもが口を開けたまま呆然と眺めるその視線の先には、灰色の砂でできた地平線が広がっていた。

 大津波の前には潮が引くと聞いたことがある。海岸前に集まった群衆と共に固唾を飲んで「それ」が来るのを待っていると、ふいに肩を強く掴まれた。振り返った先には見知らぬ老女が立っていて、何故おまえが生きているのだ、双子の片割れはできる限り早く海へ還すようにと言ったはずなのに、と、まるで大きな太鼓を間近で打ち鳴らすかのような迫力で捲し立てると、周りの人を巻き込んで《あいつ》を運び上げ、抗う隙も与えぬまま防波堤の向こう側へと投げ捨ててしまった。

 気付いたときには《あいつ》はひとり、高い高い壁の外側で死体のように転がされていた。

 陽は翳りはじめ、足元の砂はそれ自体が重力を持ったように暗く沈んでいる。言い返したかった無数の言葉が喉元に押し寄せては腹へ落ちていく。両親の苦悩、兄の優しさ、《あいつ》の決意……。あの老女に何がわかると言うのだろう。全てを無に帰してくれるらしい海の気配も未だ少しも感じられない。現実は想像の下位互換ではないし、現実が想像に追従するわけでもないのに。

 太陽の光が完全に地平線の向こうへと失われるのを見届けてから、《あいつ》は溢れた涙を汚れた腕で荒っぽく拭う。それから、誰に向けるわけでもなく鼻で笑って立ち上がり、防波堤に背を向けて歩き始めた。

 

 少し前まで海底であったはずの灰色をした砂漠の上、《あいつ》はひたすらに進む。疲れれば眠り、目覚めたらまた歩いた。昼の光が肌を焼き、夜の闇が心をくじこうとした。空腹を砂でごまかしていたが、いつしか何も感じなくなった。島や大陸たどり着くと、人々に父と母を尋ねて回った。《あいつ》が信じるのは迷信やお告げではなく、ただ、自分の五感が受け取る確かな情報だけだから。

 やがて《あいつ》のひたむきな志を感じ取った多くの人々が、《あいつ》の後についていくようになる。長い長い人探しの旅はすべての土地を尋ね尽くすまで終わらない。あるときは地中海にある島のひとつに寄るのを忘れて百キロ以上の距離を引き返したし、あるときは南北のアメリカ大陸が丸ごと消えていたせいで、一行はしばらく大陸があったはずの場所を――つまり今はただ灰色の砂漠が広がるだけの場所を――ぐるぐると回り続けることになったりもした。

 それでもこの奇妙な旅は結局、誰にとっても喜ばしい結果を連れてこなかった。消えた人間はどこにもいない。本当に失われてしまったのだ、という最悪の答えだけを手にして、ぼろぼろの《あいつ》は多くの同志と共に家に帰ってくる。出て行った時から何一つ変わらない玄関扉を開け、廊下の先へと視線を移した。

 そこには、ただ小綺麗でセンスのよく、がらんどうなダイニングとリビングがあり、影のかたちをした母も、きりきり怒鳴る声も、《あいつ》の隣で《あいつ》よりずっと上手に鍵盤を撫でる兄も、やはり、なにもかもがそこから失われている。

 それでもピアノは、いつもと変わらず、《あいつ》の想像した通りの場所に、想像した通りの形をして待っていた。

 

 《あいつ》はピアノの防音装置を解除し、屋根を上げると、徐に演奏を始める。

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

ch. 7

 

 

 うん。

 あたしも同じようなことあったから、何となく想像つくよ。ママが消えちゃって――あたしの場合は、死んじゃったんだけど――それが絶対全然明らかに信じらんなくて、ママから貰ったぬいぐるみをね、ずっと抱いてた。小さい頃、はじめて水族館へ行ったときに買ってもらった白いあざらしのぬいぐるみ。隣に置いて寝てたんだ。何度も洗濯したからぺしゃんこ。高校生になった年くらいからはなんとなく恥ずかしくてクローゼットの奥に押し込んじゃってたんだけど、ママが病院に行っちゃってからはずっと、ずっと、そばにいてもらったの。

 怖かったんだろうな。

 自分だけが世界からはじかれちゃったような怖さ。

 

 ……ごめんなさい、ちょっとママのこと思い出しちゃった。

 

 そう、あたしにとってのぬいぐるみが、《あの子》にとってのピアノだったってことじゃないかな? 自分だけの揺るぎない過去を抱きしめるみたいに反芻して、ああ、あたしまだ生きてる、立ち上がれるんだって、奮い立つための貴重なエネルギー。音が出るならきっともっと力になるって分かってたんだ。

 

 それは《あの子》の期待していたレベルをはるかに超えていく。

 グランドピアノから春の旋風のように吹き上がるラメブルーの音色に、側にいた仲間たちのみならず街中の誰もが振り返った。長いこと調律もされていない、少し立派なだけの民家の一角に置かれたその楽器が、かつてない混乱と悲しみの渦に取り込まれかけていた大地を、まるで新たな季節を連れてくる鳥の呼び声のように、天高らかに照らし出す。《あの子》は夢中で、必死で、興奮して、嬉しくて、そしてなにより恐ろしくて、「恐ろしくて」、延々と弾き続ける。この音で正解だったんだろうか? この弾き方で間違っていないだろうか? 未だかつて、これほどまでに母の指導が欲しいと思った瞬間などなかったのに、彼女はもう存在しない。陽は落ち、月が昇る。神様と神様の子。生まれたくなかった子。ひとりぼっちの子。与えられた技をひたすらに辿り続ける。安らかであったはずの谷底は今、得体の知れない音色で満ちる。

 教え込まれた曲を全て弾き終えるのに丸一晩かかった。昨日と同じ朝が来て、《あの子》は鍵盤からようやく手を離す。鍵盤のひとつひとつへ吸い付くように動き回っていた指は、そこから離れた瞬間に血の気を失い、青白く透けた。でも、《あの子》が呆然とする隙もない。やんだ音と入れ替わるようにして、嵐。

 拍手の嵐。

 感激の嵐。

 声援の嵐。

 ――正解だったのだ。間違っていなかった。《あの子》は生まれて初めて経験するこの名付け難い震えに胸躍らせながら、もう一度、外の世界へと駆け出していく。

 

 使い物にならなくなっていたコンサートホールも、体育館も、ライブハウスも、《あの子》が旅をしている間に美しく生まれ変わって《あの子》の演奏を待っていた。弾けば弾くほど、聴けば聴くほど、新しく試したいことが次々と頭の中へ溢れ出す。様々なアイデアを体の動きへと変換していくうち、《あの子》はもう誰もが認める立派なピアニストとなっていた。

 名実を伴った《あの子》はやがて、世界中を飛び回る音楽リサイタルのツアーメンバーに選ばれる。舞台袖からも感じられる満員の客席の膨れ上がった緊張を肌に受け、コンサートマスターがそっと鳴らすチューニングのAを背筋を伸ばして眺めているとき、必ず思い返すことがひとつだけあった。

 声を奪われていたあのピアノのこと。その無機質なゴトゴトという音、弾き続けているとまるでやわらかい綿のようにも感じられてくる不思議な鍵盤の感触、右足のつま先を押し返してくるペダルの重み、座面のクッション自分のお尻の形に沿って僅かにへこんだ長椅子。どれだけ高価で大きく、完璧に調律されたピアノに触れても、気付かぬうちに《あの子》の体へと入り込んでくるような、呼吸の深さが一致する相手は他になかった。だから《あの子》はいつも意識的にイメージしなければならなかった。

 自分の体の延長に鍵盤があり、ペダルがあり、ハンマーがあり、弦があり、音色があるというイメージ。

 ツアーメンバーと足並みを揃え、惜しみない期待とこれ以上ない賛辞の草原をかき分けながら世界を何周も何周もまわった。ロンドンのロイヤル・アルバートから始まり、ヨーロッパ各都市をスタンプラリーのような律儀さで巡業すると、ウィーンの歴史あるサロンである楽友協会を経由し、アディスアベバの高い空とヘイガ・フィキルに迎えられ、デリーとアブダビを足取り軽く駆け抜けて、上海に大きく聳える通称「ワンタン」でしばらく過ごしたあとは、オセアニア・アジアの島へ向かう。アジアの終着地・東京のサントリーホールで大きく深呼吸してから、最後にユーラシア北部の三都市と北欧を巡った。

 膨大な時間が過ぎ去り、季節は繰り返す。いつまで経ってもすり減らない革靴のソールを眺めながら、同じメンバーでいったい何周したのだろう、ということに自分が無頓着なのは、生まれつきの性格のせいなのだとあまり深く考えないようにしていた。

 というより、深く考えるよりも先にそのことを忘れてしまうだけなのだけれど。

 

 そんなある朝。「ワンタン」から高速道路を跨いだ先にある、約二ヶ月の滞在となるリッツ・カールトン上海のラウンジ、低血圧からくるぼんやりした頭を一人用のソファでマイペースに覚醒させつつあった《あの子》の向かいに突然、ひとりの女性が現れる。

 

――ねえ、いまから言うことホントかウソか。正直に答えてよ。

 

 彼女は《あの子》が驚きの表情をつくるよりも早く乱暴な問いを勢いよく投げつけた。その言葉に呆然とするしかない《あの子》の視線の先、右手に持ったアイスコーヒーを喉を鳴らして一気に飲み干すと、少し気分が落ち着いたのか、《あの子》の座っているのと同じ、深い藍色をしたソファにゆっくりと腰掛け、こう続けた。

 

――きみがあの「汲む者」の子どもだって話、ホント?

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 8

 

 

 オーケストラに通常ピアノが入らないのは、僕が思うに、あれが「声」ではないから、ではないかな。ヴァイオリンファミリーのように雄弁な言葉を持っていないし、木管楽器のように詩的でもなければ、かといって金管楽器のように力強くもないのさ。どうしたって混ざり合うことはできない。だからピアノがステージに並ぶとき、ほとんどの場合は手前の一番目立つ位置に据えられる。ハーモニクスの一部ではなく、特別扱いにすることでようやく輪に入ることができるんだ。

 ずっと孤独の内でピアノを弾き続けていた《彼女》がオーケストラに迎えられたところで、対応できるのはせいぜい「特別扱い」してもらえるピアノ協奏曲がいいところ。その他の……たとえばドビュッシーの「春」でハーモニクスの一部を演じるなんて《彼女》には荷が重すぎた。だから、そういうときは別のピアニストがステージに立つ。

 「ハーモニクス用のピアニスト」、それが《彼女》に問いかけてきた女性の役割だ。あの朝、《彼女》がその女性を見て驚いたのは、ふたりがほとんど会話もしないような間柄だったからなのさ。このふたりが特別険悪だったわけじゃない。《彼女》はここでもやっぱり孤独だったのさ。《彼女》の鬼気迫るような演奏に胸打たれ、心掴まれる観客やメンバーは多かれど、《彼女》と親しくなる人間はいなかったし、そのことについて《彼女》自身も特段気にかけていなかった。自分のそばにいるのはピアノだけで充分だと感じていたから。

 

――「汲む者」?

 

 その単語を聞いたのは、双子の兄と図書館へ通っていた幼少期以来だった。自分がその子どもだと言われても全く身に覚えがないけれど、前世の出来事かと思われるほど長い間生家へ戻っていなかった《彼女》の心に、そのちょっとした家族の記憶はじんわり効いた。

 

――知らない? ウィーンの教会にパイプオルガンを弾く老人がいるの。

 

 老人……。

 父親のことだろうか? 一瞬よぎったその考えはすぐに取り消される。なぜなら、父親も母親と同様に失われた存在だったから。それに《彼女》にとって父親は、老人という枯れ崩れた響きの言葉からは最も遠い存在に思える。

 訝しげに首を振った《彼女》の顔を覗き込むようにして、その女性は付け加える。――誰が言い出したのか知らないが、あの日、一滴残らず干上がってしまった海について、「汲む者」はその真相を知っていると言われている。彼なら海を復活させ、消えてしまった者たちを元通りに戻すことができるかもしれないともっぱらの噂で、その希望の拠り所として日に日に人だかりが増えていくのだという。しかし彼は誰に対しても口を開こうとしない、来る日も来る日も教会のパイプオルガンを一心に弾き続けている。

 オーケストラがウィーンから旅立つ前夜、オーケストラのあるメンバーが地元住民から話を聞きつけ、他のメンバーたちと一緒に面白半分でその様子を見に行くと、初めて見たその後ろ姿に何故だか見覚えがあるような気がしてならない。皆それぞれ顔を見合わせ、全く同じことを考えていると分かると、その不気味さに鳥肌が立つ。

 彼の佇まいが、年齢も性別も全く異なる、我がオーケストラをして至上のソリストと名高い《彼女》にそっくりだったのだ。

 

 その話を聞いた日から、《彼女》は半年もの時間をかけて悩み続ける。上海を出発し、湿度の高い島々を巡り、肌を裂く寒さの北国を巡り、ようやくスタート地点のロンドンで僅かな休暇を与えられると、次のツアーを待たずにウィーンへ発った。

 

 オーケストラの女性に教えてもらったアドレスは、観光地として有名なある大きな教会から脇に逸れた、狭い通りの突き当たりを指していた。賑やかな大通りを抜け角を曲がると、ミントグリーン色の屋根を持つ小さな教会が現れる。その麓には、目視できるだけで五十人以上とも思われる群衆が確かにできていた。

 《彼女》は、逸る気持ちをおさえてゆっくりと近づいていく。群衆でできた人の壁が蓋の役目をしているのか、その音はなかなか《彼女》の耳まで届かない。ついに群衆が目の前に迫ったとき、ようやく微かに響くメロディを捉えることができた。

 それは、バッハの第645番。オルガン・コラールで最も有名な曲のひとつ。

 

――その人を通せ!

 

 礼拝堂の内側から男性の声がした。人混みをかき分けてやってきたのは、かつて着の身着のまま両親を尋ねて回った旅の途中、行動を共にした同志のひとりだった。彼の手に引かれて、左右に割れた群衆のあいだを足早に進む。ああ、この曲はピアノ用に編曲されたものを演奏したことがある。ペダリングの指示がなくて、いくつも試してみたけれど、どれひとつとして母の納得いく結果を引き出すことができなかった。それは兄も同じだった。

 そのわけを、今思い知らされる。教会内に満たされる圧倒的な音の柔らかさ。これはどうやったって弦楽器の曲にはならない。管楽器が、教会のために創られたこの楽器が演奏してこその曲だったのだ。

 

 礼拝堂の後方、パイプオルガンの演奏台のある二階を目指して狭い階段を駆け上がった先には、腰の曲がった小柄な男性の後ろ姿がある。彼は何かを探るような速度で一曲弾き終えると、皺だらけのシャツの胸元から何かを取り出し、手元で慈しむように撫でてから、こちらを振り向いた。

 

――妹よ。

 

 《彼女》も同じようにペンダントを取り出し、彼に近づく。少し前まで響いていた絹衣のような音はすっかり消え失せ、人々の遠慮がちなざわめきがただ丸い天井に跳ね返っては落ちてゆく。

 

――父も母も、消されてしまった。

 

 しわがれた声の奥底に、かつて聞いた兄のまっすぐな、まるで遠慮のない光線のようだったあの響きを捉える。《彼女》は黙って彼に肩を貸し、ゆっくりと立ち上がらせる。小さな口が波打ち際に絵を描くように心許ない言葉を刻む。

 

――この世界はやはりハリボテだ。「時間」というものをどうにか真似てみたところで、神の、本物の業には届かない。あの日から、この世界のほとんどの物体は時間を重ねることや歳をとること、経験を蓄積することを放棄してしまった。まるでこれが正解であるかのような顔をして。……なあ、この音だってそうだろう。

――音……。

――お前は、この音が正解だと思うか? 間違っていないと思うか?

 

 間違っていない。《彼女》はそう言いかけて、口をつぐむ。

 私に向けられたあの歓声は、拍手は、賛辞は、確かに私の演奏に向けられた100%の肯定だ。それでも……。《彼女》の心の奥底にあった小さな疑念が、《彼女》より一日だけ早く生まれた兄の導きによってスポットライトを浴びる。

 本当に? 本当に正解なのか――。

 

――神の声は、ここにいる限り聴こえてはこない。

 

 ぞっとするような言葉を残し、兄はぐったりと脱力して動かなくなった。《彼女》は《彼女》を礼拝堂の中へと通してくれた同志の男と二人で兄を支え、バルコニーのように突き出した演奏台のデッキから身を乗り出す。フェンスの向こうには、祈るようにこちらを見つめる夥しい数の視線があった。《彼女》は深く息を吸う。

 口を開く。

 

――私は、お兄ちゃんのように、才能をもっていないから。お兄ちゃんに見えているもの、感じられているもの、訴えかけてくるものが一体なんなのか、私にはわからないの。

――泥臭い生き方で。この目で見なければ、体で感じなければ、耳で受け止めなければ、理解できないことばかりで。豊かな想像力があともう少しだけあれば、神様の子としてお兄ちゃんと一緒にこの世界をつくり直すことができたのかもしれないけれど。

――私は、この世界のねじを巻いてしまった者を、憎んでいる。世界に勾配を与え、差異を生み出し、不完全を成立させた「汲む者」を……。それと同時に、途方もなく愛さずにはいられない。この泥臭い生き方を私に仕向けた、神様によく似た、ただの教え子。たった一つのことに執着し続け、最後には愛想を尽かされて、一人きりになって、それでも進むことをやめない。

――まるで私のようで。

――だから、私は逢いにいく。「汲む者」に、そして、彼女を置き去りにした神様に。言ってやるんだ、彼女がどれだけひたむきだったのか、誠実だったのか、ばか真面目で、不器用で、それでも世界と対峙することを楽しんでいたのか。

 

 やおら聴衆たちが紡ぎ出したコラールの合唱に後押しされるように、《彼女》は兄を背負うと教会を出てまっすぐに歩き出した。目指すは生家、あのピアノの元へ。《彼女》は無数の歌声を伴って何日も何日も歩き続ける。昼の光は二人と歌声に降り注ぎ、夜の闇は全ての心を優しく鎮めた。灰色の砂漠のいちばん深い谷底を越えたところで、兄は息を吹き返す。それから日を追うごとに生気を取り戻し、《彼女》の背中からおりて自らの足で歩き、大陸が見えてきた頃には《彼女》と同じ年齢の相貌を取り戻していた。その変化と比例するように、歌声は一人二人と離れてゆく。

 ついに最後の歌声が途切れたが、二人が後ろを振り返ることはない。《彼女》が出て行った時から何一つ変わらない玄関扉を兄が開け、その背中に妹が従う。廊下の先へと歩いていく。

 

――どれを弾こう。

 

 グランドピアノの鍵盤の前、長椅子の右側に兄、左側に妹が座る。連弾に絞ったところで候補は山ほどあった。それでも初めに思いつくのは、二人の再会を彩ったバッハの第645番。Wachet auf, ruft uns die Stimme(目覚めよと呼ぶ声が聞こえ)。

 兄が鳴らした初めの一音は、がらんどうの室内に寂しげに佇む。けれどもすぐに続くハーモニクスがその感情ごと押し流していくように響き渡り、二人はあっという間にその不可思議で賢く、巨大な楽器に指先から取り憑かれていく。体を、心を、頭を、命を、絡め取られていく。今まで練習したどんな演奏よりも、気味が悪いほどよく馴染む。兄妹の呼吸がその差異をみとめながらも重なり合い、深く落ちてゆく。

 谷底へ。二人きり、探求の谷底へ。

 まるで世界には初めから二人だけしか存在していなかったかのような静けさの中、妹の心には一つの言葉だけがこだまする。

 

――お前は、この音が正解だと思うか? 間違っていないと思うか?

 

 問いは問いの形を保ったまま妹の全身を駆け巡る。わからない、わからない、わからない。

 

――お前は、この音が正解だと思うか? 間違っていないと思うか?

 

 お兄ちゃんにわからないことが、私にわかるわけないのに……。

 

――お前は、この音が正解だと思うか? 間違っていないと思うか?

 

 ……いや、違う。

 お兄ちゃんには絶対にわからないことが、ひとつだけある。

 神の視点では見つからない探し物。

 それをお兄ちゃんが私に託したのだとしたら。

 

 妹が何かを掴みかけたその瞬間、地鳴りのような轟音と共に土色をした海水がこの家を呑み込んだ。瓦礫がガラス窓を破り、一瞬のうちに室内へと入り込むと為す術もない二人を連れて彼方へと去ってゆく。遠く、遠く、遠く、世界の果てよりも遠く……。

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 9

 

 

 俺は、なんとなくさ、空の上だと思ってたよ。だって言うだろ? 死んだやつはお星様になって空から俺たちのことを見守ってますよとかなんとか。馬鹿みたいな話だけど、ちっさい頃から聞いてると無意識のうちに思い込まされるもんなんだな。

 ただ、《あいつ》の世界では違った。《あいつ》の世界では、あの世は海の底の底、光の一粒も届かない暗闇の中にあると言われてた。

 

 兄妹の演奏に導かれて、あの世は向こうからやってきた。「汲む者」が配置し、ねじを巻いた世界が、世界の全てが、大きな腕に薙ぎ倒されるようにして次々とリセットされていく。瓦礫の塊が、生物が、天と地が、熱が、そして最後に光が、真っ黒な化け物の喉の奥へと消えていく。《あいつ》がまぶたの裏に見た景色がそのまま現実となって襲い来る。その体は脱ぎ捨てられ、輪郭を失い、何もかもと合わさり溶けていく感覚。包み込まれているような、包み込んでいるような。外側でも内側でもない場所で。

 その渦中、《あいつ》の命は兄に託されたひとつの問いを繰り返し呟いている。

 

――お前は、この音が正解だと思うか? 間違っていないと思うか?

 

 間違ってはいない。けれど、きっと正解でもない。

 あのとき、お兄ちゃんが言っていたこと。この世界で「時間」はハリボテで、神の業には届かなくて……。「時間」はその場に残り続けるわけでも、重なることを放棄するわけでもないはずで……。そのどちらでもないのだとしたら、それは。

 想像の中の世界。お兄ちゃんやお父さん、お母さんの頭の中で響いていたはずの、――.mp3。

 

 簡単な和音すら一度.mp3で聞かされただけの私の脳内に、

 自分が今押さえている鍵盤の組み合わせが引き出した音の響きを想像させるなんて、

 少なくとも、才能のない私には無理な話だ。

 

 どこで生まれた?

 

 あの音は、どこで生まれた?

 

 

 

 繰り返す問いのその先、確固たる解答の頂点へと手を伸ばす《あいつ》の意志は、《あいつ》の生きていたところとは少しだけ異なる世界――心臓の鼓動、上がる息、風を切る肌の感触、足音の響く病院の廊下へと繋がった。

 俺だ。俺の体の中へ《あいつ》が取り憑いて、無我夢中でピアノを、《あいつ》にとって最も自由のきくあのマシンを求めて駆けずり回った。ちょうど俺が入院してた総合病院の五階、西側の突き当たりには娯楽室があって、そこにアップライトピアノが置かれていた。あとから聞いた話だけど、この病院で大動脈瘤の手術をした有名な作曲家が寄贈したんだかなんだかで、かなり立派な……、そう、スタンウェイ。飯食って寝て廊下を歩くのが仕事の病人だらけの建物の中に、宝が眠ってたってことだ。

 

 鍵盤に触れる前から、もうすでに《あいつ》の耳は何かを感じ取っていた。その場に残り続けるわけでも、重なることを放棄するわけでもない、いわば「流れる」ような様々な音の囁き。兄貴や両親が頭ん中で想像していた音はきっとこれだ、と直感が叫んでたんだよ。今まで《あいつ》が過ごしてきた世界で音がどう鳴ってたかなんて、丸ごと全部頭から吹っ飛んじまうくらいには強烈な体験だ、更にこれから起きることが《あいつ》にとってどんだけ衝撃的な出来事なのかは想像に難くないよな?

 その瞬間はこう始まった。《あいつ》と「神の声」は、チューニングのA4で正面から邂逅した。真ん中からちょっと右寄りの白いラの鍵盤だよ。そこにそっと触れてから、人差し指を下ろした。その瞬間、息を呑むのが俺にも伝わってきた。鳴っているのはハンマー機構の先にある弦であることなんて頭じゃ分かってるつもりだが、指先からまるで電流のようにビリビリと伝わってくるこの音の連続性、シームレスな響き。縦にも横にも、均等に、継ぎ目なく……。言葉にならない感情が喉の奥で吠えていた。

 恐ろしいものを見るような目をしながらも、《あいつ》が手を止めることは最後までなかった。神経を直接揺すぶってくるような音色に涙が溢れてくるのも気にせず、狂ったように弾き続けたんだ。演奏のイメージはもはや必要がないほどだった。腕は、ずっと細かく震えてたさ。あれがなければもっとヤバいもんを聴けたのかと思うとちょっと怖くなるくらいだった。

 《あいつ》は自分の身から溢れ出る感情と絶え間なく流れ込んでくる音の波間で喘ぐように呼吸しながら、でも、その差異はほんの少しだけなんだとも感じていた。

 ほんの少しだけ、肉体に触れてくるあらゆる刺激の、その在り方が、《あいつ》の世界と少しだけ違って、その少しの差異がとんでもなくデカい結果を連れてきた。自分と兄貴が歩んだ人生のように。つまり、この世界とあの世界をきっぱりと隔てている壁なんてなくて、ただ、チューニングが僅かばかりズレただけなんだ。その結果、あの世界は永遠のピンクノイズに支配され、この世界では時が流れる……。それでも《あいつ》は、「汲む者」が成した功績が限りなく神に――正しいチューンに――近接していたことを感じて、安堵せずにはいられなかった。ひとりぼっちの探求者が辿り着くにはこれ以上なく最高の地だったんだと。

 そうやって二、三十分ほど弾いてた曲の中には俺なんかにも聞き覚えのある有名なものもあれば、全然知らないものもかなりあってさ。でもな、ひとつだけ。はっきり覚えてるのが、あれだよ。バッハの……。そう、最後に兄貴と弾いたあの曲。

 パイプオルガンじゃなきゃダメなんて、そんなことなかった。やっぱりピアノで弾いても素晴らしい曲だったって、《あいつ》が、噛み締めるように言ったんだよ。

 

 その後はご存知の通りさ。突然のコンサートに沢山の病人が群がっているところへ、ドクターとナースが何事かと駆けつけて、人混みの中心にいた涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした中年男を高級ピアノから引き剥がすと、鎮静剤を打ってベッドへ連れ戻した。医療のための人工代替脳は遠隔仕様から現地仕様へ付け替えられ、しばらく経ったあと、俺は無事に全快、退院することができたとさ。

 それでおしまい。

 

 これでいいか? ……そうさ、これが全部だよ。今思い返しても、とんでもない体験だったな。

 あれからしばらくは毎日夢にみた。悪夢でもないのに、目が覚めると心臓がバクバク鳴ってさ。《あいつ》の人生の泥臭さと、根性と、決断力と、カリスマと――そういういろんな面を己と比べて毎回打ちひしがれるんだ。それでもドラッグと酒に溺れて首を吊ったあの時とは心向きが全然違うんだよ。それに、あんなにひどい状態から自動車整備の仕事に復帰させてもらえたんだ、俺ももう変な気なんて起こさずに真っ当に生きていくさ。これ以上にハイな体験ができるドラッグなんてこの世に存在しないしな。はは……。

 

 ああ、そうだ。俺もお前らに聞いておきたいことがあるんだ。いいか?

 兄貴は、《あいつ》の兄貴は「こっち側」に来れたのか?

 それだけずっと気になってたんだよ。《あいつ》は最後まで一人だったのかって……。

 

 ……

 

 そうか。

 いや、いい。ありがとう。

 少なくとも、俺の体を貸してたとき、《あいつ》は一人じゃなかった。

 それだけ覚えておくよ。

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

 

ch. 1

 

 

 別に信じてもらわなくたっていいんです。

 大切なのは、私が《あの子》のことを死ぬまでずっと覚えているって、そう決意することだけだから。

 これは、私の物語だから。

 だからいいの。

 

 

 

…… ~~~ 。 ……、 …~… …

 

―――――――――。

 

 

 

20220503

m.wani

​©︎ 2019 by APZ wani.