「車庫だ!」「車庫だ!」と床から1ミリくらい跳びながら叫ぶ少年の右横でその母とおぼしき人物は「そうだねえ、車庫だねえ」と答えていた。
 わたしは車庫だろうがなんだろうがまあハッキリいってどうでもよくて、わたしは車窓から見えるデジャヴがいくつも重なったような景色を見るでもなく無視するわけでもないような濃度で振り向きながら、わたしは要するに失恋したのであって、そして、わたしは電車に乗って帰宅するのである。

 言っておくが昨日の結婚式と私の失恋は何の関係もない。
 だから昨日の結婚式のことはできるだけ詳細なる部分まで記録しておこうと思う。

 昨日の結婚式は私の友人と、私の友人でない人の結婚式だった。わざわざそんなこと言うのも変かもしれないけど何となくそう言いたかったのでそういう言い方にしてみる。
 新婦側が私の友人である。名前は桝井晴という。彼女とは中学校から高校まで同じクラスで、同じ吹奏楽部に所属していた。木管楽器派と金管楽器派でいつも水面下の戦いを強いられるような種類の、しょうもないエネルギーばかりを燃やし続ける部活だった。中高一貫校だったから、受験を理由に引退するまで五年間も部活にいたのに、いばれたのは半年くらいだった。推薦で大学にスパッと入れるような先輩が、高校三年生の夏までダラダラと引退を引き延ばすいやな風習がうちの学校にはあった。
晴は私のいちばんの友人だ。エゴ心とそれを隠すための友情芝居を何層にも重ねた、世界一まずいミルフィーユみたいな部活になぜ五年間きちんと所属していられたかといえば、彼女の存在を語らずしてその理由を説明できない。
 晴の旦那は私の知らない人だった。
晴は中学校の数学の教員なのだが、旦那は同じ中学校に勤務していた人らしい。昨年転勤が決まって、それまで三年間交際していた晴にプロポーズすることを決めたのだと旦那は恥ずかしそうに私に喋った。旦那は黒くさっぱりとした髪形をしていて、同じ黒の瞳をしていた。鼻がつんと高いのが少しだけハーフみたいな印象にさせていた。私は彼と三度くらいあったことがあるけれど、思い出せる彼の特徴といえばこれくらいだった。あとは毎回薄い水色のストライプシャツを着てくるところとか。
私はふうん、といった調子で頷いた。そしていつか私にもそんなことが起こるのだろうかと、若者が老齢や死を想像するときのような抽象さで「プロポーズ」「ケッコン」を思い浮かべようとした。私はいつまでたってもウエディングドレスの中に私をはめ込むことができない。ケーキに入刀できない。そしてそのときまだ付き合っていた彼氏が、新郎として私の横にいることを想像できない。

 黒いパンプスなんて始めて履いた。
 高校を卒業して服飾系の専門学校に入り、何年かフリーター生活をしたあとアパレル会社に入社した私は、社員になったくせにずっと店頭で売り子をしていた。フリーターのとき働いていた店がそのまま私を社員として雇ってくれた形だから仕方のないことだけれど、私が専門学校で一生懸命勉強したことは輸入製品の買い付けとか、流通とか、経営とか、要するに裏の仕事で、私が夢想していた将来とは全く異なった今の状況に薄ぼんやりとしたやるせなさを感じる。いつも履いているのはOLの黒いパンプスではなくて、七センチヒールのベージュのパンプスとか、サンダルとか、モカシンとか、そういう類なのである。だから私は電話越しに連絡を受けたとき、ふつう抱く感想が私の中に実感として湧いてくる前に、黒いパンプスが頭の中にふっと浮かんで私の目の前で揺れたような気がした。それはたぶんOLへの憧れみたいなものとないまぜになった虚像なんだろうけど。

 昨日の結婚式には出なかったほうがよかったのかもしれない。
 だからなおさら記録しておこうと思う。
 車庫を過ぎ、男の子は静かになった。そしてつと母のそばに寄って太もものあたりに掴まった。母は黙って男の子の髪をなでた。栗色をしていた。私は私の右手をゆっくりと握る。握る。

 ちょっと背伸びをしたような、くすぐったい豪華さであった。新郎も新婦もお互い大勢の友人を呼んでいて、それに三等親あたりまでの親戚をプラスしていたから、会場はびっくりするくらい広くて、そのくせテーブルとイスで空間は埋まり切っていた。天井が異様に高くて、そこから大きなシャンデリアがぶらん、とぶら下がっている。窓も大きくカーテンも分厚い。繊細さを出そうと努力した跡が見える壁紙の柄もこの会場にはかえって不釣り合いでむしろそれだけが際立っているように見えた。一瞬気圧されたあと、私は中高時代の友人たちと共に前のほうのテーブルに案内された。テーブルクロスの白が攻撃的なまでに白い。
 ほとんどの人が披露宴から呼ばれていたらしい。「式」のほうは親戚のあいだのみで行うのだと晴が言っていた。そして「ワタも呼びたかったんだけどね。ごめんね」と首を傾けた。___私の名前は綿橋りつこという。晴と元彼だけが私を「ワタ」と呼んだ。気に入っているかと言われたらたぶん頷くと思う。___そういうことで私も披露宴から呼ばれた。晴は白いふわっふわのドレスを纏ってキャンドルサービスをして回った。新しい笑い方を発見したような笑い方をしていた。すくなくとも私にはできない笑い方だった。その理由を探るのはよした方がいいことくらいわかっている。隣で高校の友人が「いいなあー」と平凡なコメントを残した。だから私も「そうだねえーいいねえー」と平凡に返した。頬杖をついた友人の爪が水色のラメとラインストーンに覆われていた。同じような色をしたピアスを私は付けている。触ってみると、この会場の高揚を一気に降下させる強さの冷気が指にまで巻きついてきた。私ははっとして後ろを振り返った。永遠にうろつきまわりそうな低俗な世界平和がそこにあった。あるだけましじゃないかと私は思う。
 ケーキ入刀の直後に電話がかかってきた。私は冷やかしながら晴と旦那の入刀シーン写メを撮りまくっていたのでバイブレーションが働く前にその着信に気付いた。〈亮 実家〉彼氏の実家からだった。

「もしもし、りつこです」
「…りつこちゃん?」
 地球の裏側から囁かれているようなか細い音声だった。私は友人に声をかけて廊下へ出た。私はもう一度「もしもし、りつこですけど、どうしたんですか?」と、言った。
「亮がね、亮がね」私は亮に何かが起きたのだということだけがわかった「…亮が、どうしたんですか」自分でも驚くくらい冷静に声を絞った「車に、轢かれて、ね…」“ね”には奇妙な不協和音が混ざっているように聞こえてきた。私は祈った。けれどこういう場合にはどんな言葉を組み合わせて相手にたずねればいいのだろうか「どんな、…どんな状態なんですか。亮は」赤茶色をしたセンスのいい絨毯が私の視界のすべてだった。何度も瞬きをした。
 そしてその瞬きの延長に、今の私がこうして立っていた。

 私が降りる駅のひとつ前の駅で親子は降りていった。母の太ももの一部であるかのように、男の子はぴったりとくっついて離れなかった。ホームに降りた直後、男の子は私のほうをちらっと見た。私は笑い方が分からなかったのですこしだけ会釈をした。男の子は私のことなんて見てなかったよ、という素振りでぷいとそっぽを向いた。扉が閉まる。
 車庫なんてどうでもよかったくせに「車庫だ!」と叫ぶ男の子の声とさっきの視線がぐるんぐるんとつむじのあたりで踊った。晴もいつかあんな子供を産むのだろうか。そして私のほうをあんな目でちらりと観察してくるのだろうか。私は次の駅でもうどうしようもなく降りれないような気がした。亮が死んで、私は「恋」を「失」って、おそらく精神状態はぶらんぶらんだ。
 昨日の結婚式も、今日の通夜も、まったく関係のないことなのに、私の中ではどこかつながっているような気がしてならなくて、それは愛だの恋だのというところも多少は関係しているかもしれないけれど、もっと根っこを張った地の深くのところで、そのふたつの出来事は顔を合わせているのだ。
 電車は私の目的地をとうに過ぎ、遠い遠いところへ私を運んでいった。それは「プロポーズ」や「ケッコン」に一番近くて、でもせつないくらいに遠い地だと私は知っている。

きのうの結婚式

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