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 きゅうちゃんもういいよ、やめとこうよ。重たい玄関扉がばたんと閉まる音がしてから、私の右肩に手を置いて、葵さんはぽつりと言った。もうさあ、決めちゃったんだよ、私たちがなんか言ってどうなることでもないよ、と。五人の女たちが住む築三十八年の戸建は玄関が広い。そのまんなかで爪先と踵が土色に擦れたクロックスもどきを中途半端に引っ掛けたまま、私は黙って首を振った。

 葵さんは私の肩をまるで自分の肩をさするみたいに撫でながら続けた。

「わかってるよ私らもさあ。絶対やばいよねあの男、わかってんだよ。でもね、本気の人を止めらんないの。前からそうなの私ら。だから変な宗教にはまって、こんなところで寄り集まっちゃってるんだよ」

 扉の向こうから車のエンジンがかかる音がして、すこししたあと、その音はゆっくりと遠ざかっていった。それが十二月二十日のことだった。

 

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 永遠に出続けるファックスの山から目当ての発注票を探していると、山内さんに「波多野さんお昼いこうよ」と声をかけられた。あれっもうそんな時間、と言いながら立ち上がると少し目眩がした。

「なんか今月紙の量やばくない?」

 ダンボールに入った大量のA4用紙を訝しげに眺めながら、山内さんが呟く。

「そうなんですよここ最近めっちゃ紙で来てて。電子発注が減ったってわけじゃないんですけど」と返事をしている間にもまたファックスがビーと音を立てて一生懸命紙を吐き出している。なんなんでしょうねえ、と言おうとしたところで昼休憩の鐘が鳴った。

 

 四年前から事務員として勤めているこの会社は、都内の雑居ビルにぽつんと存在している、吹けば飛ぶような弱小企業だ。細々とした雑貨を地元の商店や個人オーナーのコンビニなどに卸している。創業者の息子が二代目社長を務め、お得意さんはほとんどが二十年以上の付き合い。細く長く、地元に根付いているある意味愛らしい会社である。

 私のポストもかつては大ベテランの女性が切り盛りしていたところを、そろそろ能力も落ちてきたからと「譲って」もらったようなものだった。彼女の友人である映(えい)さんが「商業高校を出たいい子がいるよ」と私を推薦してくれたのだ。昔も今も、小さな会社は知り合いのつてで人を雇っている。求人サイトで片っ端から応募しすべてに落ちていた私にとってそれが有り難すぎる採用システムだったことは言うまでもない。それからずっとこの会社で、特に波風を立てることもなく過ごしている。

 

 カレンダーは師走、秋と冬を交互に繰り返すような気候はやっと落ち着いて本格的な冬になった。山内さんと連れ立ってビルを出る。今年の春に営業として転職してきた彼女は、この会社の、彼女以外にいる唯一の女性社員である私のことをよく気にかけてくれていて、彼女が事務所にいる日は大体一緒にお昼を食べにいくのが習慣になっているのだった。外は朝より風が強くなっていた。マフラーだけ首に巻いてきたことをちらっと後悔する。山内さんはこのまま営業先へ向かうらしく完全防備の状態で隣を歩いていて、自分の寒々しさが殊更意識された。

「もう十二月かあ」

 よく行く定食屋へ向かう道すがら、山内さんが困ったように呟いた。

「今年もすぐ終わっちゃうんだから困るよ」

「年末進行、大変ですよね」

 コンビニはさておき、個人商店は年末休業が早い。ぼやぼやしていると電話もメールも返ってこないまままた来年、となってしまうので今月は特にスケジュール管理に苦労していた。山内さんも同じような苦労を抱えているのだろうと思ったのだけれど、彼女は私の言葉に、いやいやそうじゃなくて、と右手を顔の前で振り振り、

「今年やろう、今年こそはやろう、今年流石にやんないとまずい、って思ってたことがなんにも終わってないの」

 と渋い顔をして言った。

「毎年やらない? 今年の抱負みたいなの決めてさ」

「うーん」

 やらないですね、と言いかけたところを山内さんが被せてくる。

「今年はね海外旅行したいって思ってたの。夏でも冬でもいつでもよかったんだけど。行き先もそんなにこだわりなくて。韓国とか台湾とかでもいいし、ハワイでもサイパンでもいいし、ロシアでもエジプトでも、グリーンランドでオーロラ見てもいいよねとか思ってたのに」

 どこでもいいって思ってたらどこにも行かなかったよ、と口元に添えたままの右手を軽く握って笑う。

「旦那と軽井沢行ったっきり。パスポートもどこ行ったっけって感じ」

 山内さんには結婚五年目くらいの旦那さんがいる。三十歳である山内さんは、私の歳のときにはもう旦那さんと付き合い始めていたそうだ。大学を卒業するタイミングだったらしい。年齢という軸で人を横並びに比較したって何の意味もないけれど、それでも私はいつも私と山内さんや周りの人たちを並べて、その途方もない人生の距離にいつも面食らう。その距離は「追いつく」とか「引き離す」とか、そういう類のものでないことも、分かっているけれど。

 定食屋の席に着いても話題は続いていた。抱負など考えたこともない私に山内さんは、来年から決めてみようよ、と新しくできたコンビニに入るみたいな気軽さで言った。手書きのポップがアクリル板に挟み込まれた「今日のおすすめメニュー」を吟味しながら彼女はその良さについて語る。

「なんだかんだ新年って気持ちいいもんじゃない。カレンダーが『一』に戻るだけなんだけど、一旦リセットされるっていうか、新しいって感じがして」

 その気持ちはわからないでもない。おすすめメニューを眺めながら、そうですねと答える。

「まっさらなときに何か決めるのって楽しいよ。実現しなくても」

「実現させましょうよ」思わず笑いながら言うと、山内さんも照れたように笑った。

 

 注文を済ませた頃には、周りの座席もサラリーマンたちでほぼ埋まっていた。皆はあとかああとか言いながら、どっかりと腰を下ろして熱いお茶を飲んでいる。彼らも年末や来年の話題で盛り上がっているのが聞こえた。山内さんも同じように周りの会話を聞いていたのか、

「年越しの前に年末だよね。波多野さんは年末どうするの」

 と訊ねてくる。

 帰省? 首を傾けた彼女に対し、私は一拍おいてから、それには答えず「山内さんも帰省ですか」とあえて誤認させるような言い方で聞き返した。

「んーまあねー……。帰省っていうのかな、旦那の実家行くんだよ」

 自分で聞いて来たくせに、彼女はひどく嫌そうな顔で答えた。そして愚痴大会が始まる。なにかにつけてお喋りな山内さんとお昼を食べると二回に一回はこうなるので、私ももう心得ている。

 旦那さんがどう、姑さんがどう、帰省のときの手土産がどう、子どもがどう、……どこかで一度は聞いたことのある葛藤や悩みが絶え間なく押し寄せてくる。私は運ばれてきた生姜焼き定食の豚肉を一枚一枚丁寧に口に入れながら、まるで別の国の風習を聞くかのような心地でその話に相槌を打った。私には家族がいないので、それが胸糞の悪い話だろうとショックな出来事だろうと、それが実際に起きたことなのだということそれ自体が興味深かった。私にとってはアマゾンの奥地で生活している原住民族の生活を聞いているのと同じで、自らが彼女と同じ生活を、同じようなシチュエーションで、同じように過ごせるとはゆめゆめ思えなかった。

 山内さんの話は、子どもはまだ欲しくないけれど名前はもういくつも考えている、という話題が終わったところで少し途切れた。そのあと一呼吸置いて、私にはバタバタしてるのが合ってんのよねきっと、と、ひとりごちた。

「人間関係とかぐっちゃぐちゃでもさ、自分の人生に登場人物が多いと楽しいだろうなって、そういう漠然とした気持ちはあるんだよねずっと」

 私はお椀の底に残っていた味噌汁を飲み干して、箸を置いた。

「面白い言い回しですね」

 店もだんだんと混んできた。入り口の向こうにも人が並び始めているのを見て立ち上がりかけたとき、その動きを制すように山内さんがちらっと私の方を向き、唐突にこう投げかける。

「波多野さんは結婚したいとか思わないの」

 私は曖昧に笑って返事をしなかった。

 

 

 山内さんの人生にできるだけ多くの登場人物が必要であるなら、私の人生はその真逆で、数少ない人間関係をも削り取ってその場に捨てていくのがセオリーだった。

 山内さんはおろか社長以外は知らないのだけれど、私の入社時の身元保証人は赤の他人である映さんだった。私には両親がいない、正確には、両親から逃げてきた。物心ついたころから続いた度重なる虐待のようなものを経て、身一つで逃げ出してきたのだ。

 

 実家と地元を捨ててきた十八まで、私は酷い仕打ちを受けながらもその場に甘んじていた。なぜかって、どうしたらいいか分からなかったから。これが普通ではないということは小学校の高学年に上がったあたりから薄々気がついたはいたけれど、だからといって私に出来ることは「死なないようにする」ことだけだった。人形みたいに感情を捨てて、ただ息をして、最低限生きていられればそれでいいということにしていた。ただある日、急に自分の置かれている状況には時限爆弾のような危うさがあることを自覚し、逃げることを迫られたのだった。

 その日は高校受験が迫った中学三年生の秋で、いつものように酔った父が「お前は能無しだから高校くらいは行かせてやる」と言いながら私の頬を幾度となく殴っていた。私は口の中に血の味が広がるのを感じながら、「先週は風俗で働けって言ってたな」と父のいつもの矛盾した物言いをぼんやり思い出していた。その翌日、頬の青あざをマスクで隠しながら登校すると、私の席から机がなくなっていた。今までもいじめられてはいたけれど、ここまで露骨なものは初めてだった。とりあえず残っていた椅子に座ってじっとしていた。教室の隅には、私の机をどこかへ捨てた当人なのであろう仲良しグループが私の方をちらちらと見ながらわざとらしくヒソヒソと話していた。

 その真ん中にいた女の子から、くくくっ、という、嬉しくて嬉しくてたまらないとでもいう声が漏れたのを聞いた瞬間、私は突然、このままじゃ死んじゃうんだ、ということにやっと気がついた。ここから出て行かなければならないと強く思った。他に選択肢はない、とも。それまでの人形みたいで無感情な私はどこかへ消え、突如として、人生というものは自分で操縦しなければならないのだ、ということが理解された。まるで今まで羽を押さえつけられていた赤ちゃんの鳥が巣から急に落とされて、いきなり飛ぶことを迫られたような気分だった。焦燥感と高揚感が混ざり合って落ち着かなかった。

 

 その後私は商業高校を出て、卒業式を終えたその足で新幹線に乗った。両親も、兄弟も、私をいじめて楽しんでいた子も、高校で出会ったクラスメイトたちも、誰もかも、その日にすべてを捨ててきた。初めて降りた上野駅のコンコースを見渡し、やっと見つけた公衆電話に百円玉を入れ、番号をひとつひとつ確かめながら押していく。手には唯一捨ててこなかった、契約の切れたスマートフォン。そこに表示されているのは、過去に私の地元に住んでいた、風変りなおばさんの携帯番号であった。

 

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 その日は結局ファックスから溢れ出てくる紙の注文票を捌いているだけで終業時間がきてしまった。明日は金曜日だし、週末に仕事を溜めまくるのも憚られて少し残業をしようかと考えているうちに、周りにいた数人の同僚は帰り支度を始めている。どうしたって自分が今日の戸締り担当になりそうだった。波多野さんよろしくねー、という社長の呑気な声にはーいと返事して、事務椅子に座り直した。

 注文票を商品別にまとめて、他社との共同倉庫宛てに依頼書を作成する。これだけの仕事に丸一日以上費やしていることに心底うんざりした。いつもは電子発注ばかりなのでそこまで手間取らないのだけれど、ここ数週間は何故だかファックス経由の紙発注がやたらと増えたのだった。それに営業部に山内さんが入ってからというもの、新規の取引先がすこしずつ増えてきたこともあって私一人で捌ける量ではなくなってきていた。

 古いウォーターサーバーのモーター音だけが響いている事務所は、電話も鳴らずほんのり寂しい。入力を終えた紙の注文票をファイルにまとめたところで、おや、と思う。今までずっと電子発注だった取引先である「アキタストア」から、大量の紙の注文票が届いていた。明日担当の営業さんに聞いてみようとメモ帳に書き留めてから、放置していた電子発注のデータベースを開く。ここまでくればあと一時間で帰れるだろう。

 

 

「きゅうちゃんお帰りい」

 いつもより二時間半ほど遅く帰宅すると、バスタオルで髪を包んだままテレビを見ていた志津さんが、少し心配そうな顔で私を出迎えた。かわいいクマ柄のパジャマを着ている。

「なんか今日遅くない? 飲み会かなんか?」

「んーん」

 ざんぎょー、と言いながらマフラーとコートを脱いでソファに投げた。コートの袖が志津さんに当たったけれど、彼女はそれに構うこともなくテレビに向き直った。

「お風呂いま映さんが入ってるから。その後の予約はないよ」

「じゃ映さんの次で」

 テレビでは日本の離島の自然を売れっ子芸人が満喫する、みたいな番組が流れていた。志津さんの趣味はサーフィンとスキューバダイビングである。次の夏はこの島へ行くかもしれないな、と思いながらタイツを脱いで居間を出た。

 自室のある二階へ上がり、マフラーとコートと鞄をしまう。そして窓から差し込む街灯の光をカーテンで遮ってからシーリングライトをつける。リモコンのボタンを連打して一番暗い設定にすると、やっと気分が落ち着いてベッドに倒れ込んだ。

 

 映さんは、私の地元にかつて住んでいた、変な宗教を信仰するやばいおばさんだった。もう口にすら出さないけれど、名称の時点ですでにかなりださく、SNS上でおもちゃにされていたこともあった。そんななか、当時ずぶずぶにその宗教にはまっていた映さんは、隣町まで含めておそらくすべての家々を勧誘しに回り、当然のように煙たがられる存在になっていた。私も映さんに対する印象は決して良くはなく、彼女がついにその町を出ていくタイミングで、なぜだか知られていた私のメールアドレスに、勧誘文句と引越し先の住所、そして「いつでも電話してくださいね」と添えられた電話番号が送られてきたときは気味悪さに鳥肌が立った。

 ただその当時、私はすでにお人形ではなくなっていて、高校卒業と同時にここを出て行くことを半ば決定事項として自分の心の中に秘めていた。そしてそれは全てを失うということだと分かっていたので、逃げ出すとき「誰にでも底抜けに優しい」宗教信者を利用すべくそのメールとスクリーンショットを残していたのだった。面倒なことになったら逃げてしまえばいいくらいに思っていた。私の中で「逃げる」というアクションはもはや、ポジティブで勇気のある素晴らしい言葉としてなんの抵抗もなく選択できるようになっていた。

 けれど、幸運と呼ぶべきだろうか、公衆電話から運よく繋がった映さんは、もうすでに宗教活動をやめていた。というより、宗教がなくなっていたのだった。

 もうねえ、きゅうちゃんたちを勧誘してた頃には、ほとんど信者もいなかったんよ、と、数年ぶりに再会した映さんは言った。私の夫が二代目の代表だったんだけどね、急に死んじゃったの、突然死。そしたら周りの人たちからあることないこと言われて、内部でアレコレあって、空中分解、っていうの? バラバラになっちゃった。つとめて明るく映さんは続けた。だからやめたの。大事な人もいなくなっちゃったし、何を信じればいいかとか、もう考えるの馬鹿らしくなっちゃって。だから今まで一緒に活動してた人たちをあつめて、どこかで静かに一緒に暮らそうよってことにしたの。せっかくだし東京行って、生きれるだけ生きて、ダメだったらみんなで死んじゃおうよって。

 そう語る映さんは昔よりずっと顔色が良かった。そしてにっこり笑った。

「今のところ全然死にそうにないけどね。夫に悪いなと思ってるくらいだよ」

 

 映さんが階下から、おふろでたよー、と声を張り上げるのが聞こえた。私はベッドから降りる。

 

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 翌日、出勤して早々、アキタストアの営業担当である幡見さんのデスクに寄った。幡見さん今お時間いいですか、と横から声をかけると、湯飲みの中でほうじ茶のティーバッグを揺らしていた幡見さんは、はいはい、とよく通る声で答えてこちらを向いた。

「昨日、注文票の整理をしてて気になったんですけど」と言いながら、ファイルを開いてポストイットを挟んでおいたページを見せる。「アキタストアさん、先月までほとんど電子発注だったじゃないですか」

 幡見さんは書類を一瞥すると、ちょっと待ってねという感じで右手を少し上げ、引き出しから老眼鏡を出してきて鼻の上にやんわりと掛けるとじっ、とその書類を覗き込んだ。そしてひょいっと眉を動かした。

「あー、……波多野さんこれね、ちょっと前から担当変えてもらったんだよ」

 幡見さんいわく、先月末あたりからこの取引先の担当は山内さんに変更になったのだとのことだった。山内さんが頻繁に新規開拓をしていると聞いて、新規の取引先を一社担当させてほしいと言ったのだという。

「山内さん、入社してからすごく意欲的じゃない。だからおじさんも新規のお客さんに挨拶させてもらって、最近の業界のこととかちゃんと勉強しようかなってね」

 そう山内さんに持ちかけてみたところ、二つ返事で快諾されたらしい。その代わり、営業成績が落ちてしまうから幡見さんの担当と入れ替える形でどうでしょう、という話になったのが先月末だったのだという。

「でもなんで紙になったんだろうねえ、僕はちょっと分からないな」

 幡見さんが老眼鏡を引っ掛けたまま思案するように上を向いた。

「紙から電子に変更になるなら分かるんですけどね」

 とにかく山内さんに聞いてみます、と言いつつ自分のデスクに戻った。山内さんの予定を見ようとGoogleカレンダーを開くと、今日は有給休暇取得日、そして来週から一週間は主張で静岡と愛知をまわると表示されていた。

 今日もファックスは元気に紙を吐き出しまくっている。

 

 モヤモヤした気持ちを抱えたままお昼休みになり、近所のコンビニで買ったそぼろ弁当を食べているとLINEの通知が鳴った。見てみると、志津さんが映さん以外の「同居人」たちを集めたグループを作成したみたいだった。グループ名は「会議」。なんだか物々しい。何があったのだろうと開いてみると、

 

––ちょっと

 

 とだけ志津さんが発言していた。なんだなんだと思っているとすぐに二言目を受信した。

 

––ちょっとみんな聞いて。すぐ聞いて。映さん再婚するらしいんだけどさ!

––さっきのは焦って途中で送っちゃいました

 

 映さんが再婚。思えば彼女が夫を亡くしてからもう六年ほど経っていた。

 吹き出しの下には既読三人とついている。みんな「すぐ聞いて」いる。

 

––ひえー再婚!

 

 葵さんが即レスする。彼女は確か今日お仕事が休みだったはず。

 

––そうなの。だけど私あんまり

––応援できない感じかも

 

 私も何か言ったほうがいいかなと思案しながら箸を動かしていたせいで、スカートにそぼろが落ちる。ティッシュでつまんでゴミ箱に捨てにいって戻ってくると、志津さんからの情報はあらかた共有された状態になっていた。

 

––映さんね、半月前くらいに新宿で見かけたの。デートしてる感じだったからあれって思って週末に突っついてみたら「他の人にはまだ内緒ね」みたいな感じで

––クリスマスあたりに婚約するかもーみたいな話をされたの

 

––ふつうに喜ばしいことじゃない。だからよかったねーって話ししてたんだけど

 

––詳しく話を聞いてみると、なんか変っていうか、怪しさ?みたいなのがあって

––一人で考えてるの苦しくなってきちゃったわけ…

 

 葵さんと香里さんが小さく相槌を打ちながら続きを促しているところをさらに読み進めた。

 

––別に不倫とか、そういう方面で怪しい感じはないんだけど

––なんていうか、一方的に言い負かすタイプっていうか、暴力旦那になりそうな感じがするんだよね

 

 志津さんの情報によれば、映さんの恋人は映さんと同じ五十四歳、仕事はIT関係、役員を務めている会社もあるらしく、それが嘘ではないことは分かっているとのこと。社会的には全く後ろ暗いところのない人なのだそうだ。問題なのはその婚姻経歴で、すでに三回の離婚を経ている。離婚は全て彼の側から「振り」続けてきたという。子どもはそれぞれの嫁に一人ずつ、養育費を払っているかどうか定かではない上に、過去のことは何を聞いても「元嫁とのことだから」とか「プライバシー」とか言って全く話してくれないらしい。それだけではなく、映さんの離婚歴や入信していた宗教については、根掘り葉掘り聞き出した挙句何かにつけて貶めるようなことをぺらぺらと喋るのだそうだ。本人曰く「気まずい過去を笑いに変えて昇華させてあげているだけ」とのことで、まったく反省の色はない様子。おまけに飲食店の店員などには横暴、酔っているときなどは平気で大声で喚き胸ぐらを掴んだりするらしく、映さんには今のところ何もしていないとはいえ、かなり危険であることは間違いない。

 明らかに色々とやばそうな経歴を持っている彼の話に志津さんが苦虫を噛み潰したような顔をすると、映さんはあわてて言うのだ。「でもいい人なの」と。頭も良くて一緒にいると楽しくて、……

 

「……次は最後の結婚にしたいとか言ってきたんだってさあー」

 志津さんは缶チューハイを片手にそう吐き捨てた。

 映さんが職場の介護施設の夜勤シフトである今日を狙って、志津さんは「会議」を招集した。東京二十三区の端っこ、都営地下鉄の終点駅から徒歩十五分の中古一戸建てに女四人が顔を突き合わせ華の金曜日を過ごしている。お昼にアナウンスされた映さんの恋人の件について、結局なにも結論は出ていなかった。もちろん簡単に出るような話ではないから「会議」をしているわけなのだけれど。

「志津ちゃんは写真とか見たわけ、そいつの」酔っているというより若干眠そうな香里さんがソファに肘をついたまま投げかける。「人相とか、どうだったのかなと」

「見た。見たけどねー別に変な人じゃなかったよ」

 私は居間のローテーブルを囲んでソファに寝そべったりテーブルに寄りかかったりしている三人を見ながら、膝を抱えて三角座りをした状態のまま小さくうなづいてその話を聞いていた。この手の話は私がここに来てからもう四回目になる。前回は志津さんの再就職先について、その前は葵さんの新しい彼氏について、さらにその前は香里さんの元旦那さんの葬儀についてだった。いつもこうやって机とお酒を囲んで一晩話をすればあらかた道筋が見えるものだったのだけれど、今回はどうだろう。志津さんが箱買いしたチューハイをさらに三ツ矢サイダーで割った透明な液体にちびちび口をつけていると、志津さんが「きゅうちゃんはどう思う」と私を振り返った。

「えっ、私ですか」

 参加だけしておけばいいのだと思っていただけにいきなり発言を求められてしどろもどろになる。全員が不惑をとうに過ぎている彼女たちの会話のなかにいると、まるで親の井戸端会議をぼんやり見上げている小学生みたいな気持ちになってしまうのだ。

「どうって言われても、私結婚どころか彼氏もいたことないし」と言い訳を絞り出すと、隣でねぎまを皿の上で分解した上でねぎだけをつまんでいた葵さんが「関係ないない」と即座に退路を絶ってくる。

「恋愛なんて誰でも一生初心者よ」

「そうなんですか」

「そうよ」

 葵さんは前々回の会議でギャンブル依存症の新しい彼氏とは即座に手を切るべしという判断が下されていた。

「とにかく私が一番恐れてるのはね」

 志津さんはずっと缶チューハイのロング缶を握りしめている。酒乱みたいな見た目になってしまっているけれど、あまりお酒に強くはないはずだからおそらく中身は三分の一も減っていない。彼女はぼやぼやした表情のまま目を伏せて呟いた。

「このまま映さんがあの男とすーっと結婚しちゃったら、私はきっと笑顔で送り出せないの。おめでとうって言えないんだよ」

 小さい音で流しっぱなしにしていたテレビの、今日の放送が終わった。

 がちゃがちゃしていた空気が一転、急にその場が緊張感に包まれる。

 香里さんが志津さんの肩をぽんと叩き、そのまま背中をさすった。志津さんは少し泣いていた。

「映さんには幸せになってもらいたいじゃない、いろいろあったんだからさ、私たちみんな」

 震えながら発せられたその言葉に嘘はなかった。そして私も、全く同じ気持ちだと思った。

 

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 あれから一週間が経った。けれど、山内さんが職場に姿を見せることはなかった。

 出社する予定だった週明け月曜日、彼女は誰にも連絡することなく欠勤した。心配した社長が午前中に何度か社用携帯に連絡を入れたけれど、留守電につながるだけだった。私も社長に言われて先週まわる予定だと言っていた会社にも電話をかけた。しかし彼らも、山内さんは予定通りいらっしゃって、予定通りお帰りになりましたよ、と困惑するばかりで、何も情報は得られなかった。

 

 結局その日、山内さんの行方ははっきりしないまま終業時間を迎えた。仕事中に送ってみたLINEも未読のまま、何も変化することはなかった。シンプルに彼女のことを心配する自分と、最近抱いていたモヤモヤを都合よく当てはめて推理ゲームをしている自分がちょうど半分ずつ、体の中で混ざり合っていた。

「明日も来なかったら本人の携帯にも電話してみようかな」

 社長が眉根を寄せながら、渋々、といった調子で呟く。今まで勤怠良好だった山内さんにどういった感情を抱けばいいのか決めかねている様子だった。今日も一番遅くなりそうな私は鍵を受け取って、帰り際の社長に投げかける。私も彼女に「何もない」ことを切実に願っていた。

「ご家族いらっしゃるんですよね。旦那さんに連絡してみても……」

 扉を開きかけていた社長は、驚いて私を振り向いた。ぽかんと、まあるく口を開けている。そして一言、

 

「山内さんは結婚してないよ」

 

 私の胸の中へ急速に、鉛のような重たい感情が去来した。

 

 

 残作業などほぼ手につかず、早々に帰路に着いた。玄関で傘を閉じ、まとわりついた雫を絞り出すようにして畳む。傘の先からぼたぼたと水滴がこぼれ落ち、玄関タイルの上を無秩序に跳ねた。靴箱の扉に立て掛けると、レインブーツを無言で脱いでそのまま二階へ上がった。自室で粛々とカバンとコートの水滴を拭い、黙ったまま部屋着に着替えてベッドに寝転んだ。もう今日はこのまま寝てしまおうと思った。寝て起きたら、ちょっとはマシになるから。今は亡き五歳上の姉が言っていた言葉を思い出す。彼女は私が小学四年生のとき父に殴り殺された。当時まだ父は真っ当に会社員をしていた、接待用に持っていたゴルフクラブで娘を殺したのだった。姉が死んでしまったことは町中で大騒ぎになったけれど、結局不審死ということで片付けられた。みな自分の町に虐待殺人者がいることを認めたくなかったのだ。少なくとも当時、田舎の小さな地域ではそういうことが当たり前のように起きていた。私もその犠牲になるのだということを、姉が死んだのと同じ年齢になったとき、急に喉元に突きつけられたのだった。社内で一人きりになってから、今までずっと、動悸が止まらない。私はなにも悪いことをしていない、けれども何か大変なことを起きている、そして、私がその何らかの、事件のようなものの、中心にいるような気がしてならなかった。山内さんは今どこにいるのか、なにをしているのか、生きているのか、死んでいるのか、教えて欲しかった。寝て起きたら、ちょっとはマシになるはず。私は祈っていた。明日になれば、明日になれば、何か少しでも分かるかもしれない、大したことじゃないかもしれない、山内さんは見栄を張っていただけなのかもしれない、そうであって欲しい、自分が、社会の、世の中の大きな穴の上を、綱渡りしているような気分だった。そしてその大きな穴は、いつも前や上を向いているから気がつかないだけで、いつも私の足元に口を開け続けているのだということが強烈に意識された。私には命綱がない。そして、落ちたらもうその後はない。

 

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 つけっぱなしにしていたファンデーションの不快感で目が覚めた。そのすぐあとに、部屋の入り口から向かって左隣の部屋で何か言い争う声が聞こえてきた。隣の部屋に面した壁には大きな本棚があるせいで内容までは聞き取れないけれど、激しい応酬になっていることだけははっきりと分かる。手元の携帯を確認するとまだ明け方で、新聞配達のバイク以外に物音などしないはずの時間帯だった。彼女たちはよく小競り合いの発展系のような喧嘩をしているものの、こんな時間帯に、こんなに尖った声で言い争っていることなど一度もなかった。昨晩の動悸が戻ってくるのが分かった。

 声は左隣の部屋の持ち主である映さんと、私を挟んでその真逆側に部屋がある志津さんのものだった。それだけで話の内容は大体予想できてしまう。想像しうる「明日」の中で最悪のものが始まってしまった。

 

 激しい言い争いはしばらくそのトーンを一定に保ったまま続けられた。私はじっと息を殺したまま耳をすませていた。参加することも参加権を放棄することもためらわれた。すると階下から物音がして、誰かが二階へと上がってくる。その人は映さんの部屋の扉を開けるや否や、大きな声で「うるさい!何やってんの?!」と怒鳴りつけるとそのまま部屋へ入っていった。葵さんだった。それから私の耳にも全ての内容が否応なしに入り込んでくる。もう眠ったふりをしてそのままやり過ごすのはほぼ不可能になった。

 

「だから私の好きにさせてよ」「映さんが死ぬのを見届けろってこと? そんなの絶対嫌だからね私絶対」「いつ私が死ぬなんて言ったわけ」「ほとんど自殺行為じゃないのそんな」「ねえこの話こんな明け方にしたって埒あかないでしょう、」「だって映さんがもうここを出て行くって」「戻ってくるってば」「いつ」「分からないけど、戻ってこれるから」「映さん、一回寝ようよ」「ダメなの、早く行かないとダメなんだよ」「どうして」「だって待ってるんだよ彼が」「婚約者のこと?」「そうだよみんなには、言ってなかったけど、ほらみんなに手紙書いたの、だから行かせてよ」「手紙なんか貰って納得できると思ってんの、いい加減にして」「……」「ここの家賃だって今まで通り払うから」「そういう話じゃないでしょ?!」「お願い、行かせて、お願い」「嫌、あんな男、教祖様と似たようなもんじゃないの」「志津!」「お願い」「助ける助ける幸せにしてやるって言って、結局あいつが何をした? 私らみたいな不幸な女集めてタダ働きさせてチヤホヤしてもらって、私たち何も助からなかった、だからみんなでお互い助け合って」「お願い」「助け合って生きていこうねって」「お願い」「決めたのに」「お願い、行かせて、もう決めたの」

 

 私は立ち上がり、寝乱れた寝間着姿のまま扉を開けて左隣を見やる。するとそこには今もう家を出ていかんとする映さんがいた。ボストンバッグをひとつ下げて、お気に入りのファーがついたロングのダウンコートを羽織り、脇目も振らず階段を降りていくのが見えた。私の存在には気付きもしない。その後を追う葵さんと目が合った。葵さんは少しはっとした顔をしたけれど、すぐに映さんを追いかけて一階へ行ってしまった。私も彼女たちを追いかけて階段の手すりに手をかけたところで、背後の不気味な音に気がつく。振り返ると、志津さんが窓のほう、つまり私に背を向ける形でダンゴムシのようにうずくまって何かお経のようなものを唱えていた。いや、それはお経でもない、全く聞いたことのない言語のように思えた。一音一音に何の意味もない、言葉を覚える前の赤ん坊が発するような、鳴き声に似た音。思わず駆け寄り背中を揺する。

「志津さん」

 志津さんは応えない。ただ必死に目を閉じて何かを祈っているように見えた。

「志津さん」

 直感的に、これが過去彼女たちが入信していた宗教の儀式のようなものなのだろうということが分かった。この宗教がSNSでおもちゃにされていたのは、その名称のくだらなさに加えて儀式の奇妙さによるものもあったから。

「志津さん」

 手を置いた背中が熱い。それが私のものなのか、志津さんのものなのかはもはや分からなかった。階下でまた言い争いが始まっているのが聞こえる。すると志津さんが急に目を開けた。

「馬鹿でしょう。私も、私たちも」

 息が止まった。志津さんが急に、老け込んでしまったように見えた。

「それでも生きていかれるならいいと思ってたんだけどねえ」

 それだけ言うと、黙ってまた縮こまり、動かなくなった。

 

 階下では玄関のすぐ手前で、葵さんが必死に映さんを引き止めていた。そこから数メートル離れた廊下の先で、その剣幕に目が覚めてしまったのであろう香里さんが、呆然とした表情のままその様子を眺めているのが見えた。

 お願い、お願いと連呼する映さんに、葵さんも論理的に説得することは諦めたようだった。とりあえず今日はゆっくり寝て、それから考えようよ、と、彼女の二の腕を掴み宥めすかすように呼びかけている。

「映さん」

 やっとの思いで彼女の名前を口にした。映さんの目が私の姿を見とめた。

「きゅうちゃん」

 一歩、彼女に近づいた。目が濁っている。

「映さん、どうしても今日なの?」

 葵さんに二の腕を掴まれたまま、映さんは苦しそうにうなずいた。

「何も言わないで出ていくの?」

 映さんは下を向いてふるふると首を振った。頬に涙が伝うのが見えた。

「みんなで生きてくんじゃなかったの? 私もその仲間に入れてくれたんだと思ってたのに」

「違うの」

「違くないよ。こんな早朝に。まるでここから逃げるみたいに」

 人を責めるのは生まれて初めてのことだった。自分の声とは思えないようなひどく硬い声がした。

「違うんだよお」

 子どもみたいに顔をぐちゃぐちゃにして映さんは泣いていた。ボストンバッグのハンドルを握る右手にはぎりぎりと音がしそうなほど力が入っていて、その意志が強いことがありありと伝わってくる。

「行かなきゃなんないんだよ。私にも私の気持ちのぜんぶは分かんないんだよ。でもあの人と一緒になって、何もかもやり直すの。それがしたいことだけはちゃんと分かるから。今じゃなきゃダメなんだよ。どうなっても、私が私の責任取れるから。やってみたいんだよ。覚悟決めてるの」

 ぼたぼたぼたぼた、と顎先から涙が床へ滴り落ちる。その場の空気がより一層、冷えていくのが分かった。

「ごめんねきゅうちゃん。私、きゅうちゃんと暮らせて良かったよ。教団とか宗教とか関係なく、娘みたいな年齢の子といっしょに住んでさ、まるで家族みたいだなって、思ってたよ。それでね、私また、また、……家族が欲しいなって思ったの。それはいけないことなの?」

 身体中の血が急速に冷えさまされていく。彼女は今、その場限りの言い訳に私を使っている、そう思った。感情に論理が伴わないとき、人は無意識に都合の良い理由を後付けするものだけれど、それを投げつけられるこちら側に立つとその気味の悪さと胸糞悪さがより鮮明に感じられる。彼女が私へ問う形で台詞を終えたその瞬間から、一秒一秒、彼女への信頼感や暖かな気持ちが砂のようにさらさらと消えていくのが分かった。

「最悪だよ」

 私がそう言ったのが先か映さんが葵さんの手を振り払ったのが先か、彼女は一目散に玄関へと飛び出しスリッポンを引っ掛けて家を出ようとした。まるで獲物を狙う肉食獣のように素早く彼女を追いかけてその肩を掴む。もはや彼女に抱いている気持ちはいいものも悪いものも一欠片もないはずなのに、私の口が発したのは彼女を追いすがるような言葉だった。

「帰ってきて」

 映さんは何も言わずに肩を払い家を出ていった。しんと冷えきったこの玄関よりさらに寒い空気がやんわりと外から入ってきて足元に絡みつく。そのとき初めて、今がまだ日の出前なのだということを思い出した。

 

4

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 もうさあ、決めちゃったんだよ、私たちがなんか言ってどうなることでもないよ。映さんが行ってしまった方向をぼんやり見つめて動かない私を半ば抱きしめるようにして、葵さんが訥々と語った慰めの言葉が頭の後ろのほうで消化されないままずっと残っている。十二月二十八日、あれから八日が経過したけれど、映さんが帰ってくることはなかった。会社では、こちらも帰ってこない山内さんのことは彼女の両親が捜索願を出すということで一旦話が着地し、彼女がいないことによる影響については年始に改めて対応しようということになり、年末最終日の今日は社内の大掃除をしたら帰宅していいという、毎年恒例ののんびりとした日が始まっていた。

 

「そういや波多野さん、なんで山内さんが結婚してると思ってたの」

 向かいの席で自席を乾拭きしている知念さんが、ぽそりと、どうでもいい世間話みたいな声色で私に話しかけてきた。社内で起きた全てのことは一日あれば全員に届いてしまう。

「結婚指輪とか見たの?」と訊ねてくる知念さんの左手薬指にはシルバーのリングが嵌められていた。

 思えば、私は彼女の指先など全く気にかけたことがなかった。両親は結婚指輪などというものをしていなかったからだ。彼女に心の中で相当馬鹿にされていたのだろうなと思うと胸がチリチリした。

「いや、なんか、旦那さんってワードを聞いた気がして」

 気がする、なんていうのは完全に嘘だ。けれど彼女の生死も分からないこの状況で、余計な情報を出して社内を混乱させることのほうが罪なことのように思えた。

 ふーん、と、これまた世間話の空気感で私の言葉を流した知念さんはそのまま煙草を吸いに行ってしまった。私は感情を持て余したままデスクトップの整理にかかる。すると今日初めて自席の電話が鳴った。

 

 電話の主は、得意先のアキタストアからだった。

「お世話になってますー。アキタストアの秋田ですけども」

 つい先月、幡見さんから山内さんに担当が変わった、まさにその取引先である。電話越しにぺこぺこと頭を下げながら話を聞いた。

「おたくの山内さんて方、あの最近幡見さんから引き継いだ子ね、請求書ちょっと書き違えてるんじゃないかって思いまして」

「請求書ですか」

 確かにうちの会社では、請求書を営業が作成している。取引先や商品によって口座をいくつか分けているため、新米の私が入社した時点で勝手の分かる営業側に業務を引き取ってもらったのだった。

「ええ。ウェブでね、こう、振り込もうとしたんですけど、口座番号がありませんってなっちゃって」

「そうでしたか」

 申し訳ありません、と、またぺこぺこ頭を下げる。改めて作りなおしてお届けしますので、と言って電話を切ろうとしたところ、いま払っちゃいたいから教えてくださいよ、と食い下がられる。あまりパソコンに明るくなく、頑張ってウェブサイトにアクセスしたのだからこのまま振り込みたいのだという。私も全ての口座番号は把握しているので、どの口座に振り込むべきかはその誤った番号を聞けば推測できるだろうと思い、了承した。

 しかし事態はそれほど簡単なものではなかった。

 一桁ずつ読み上げてもらった口座番号は、会社の法人口座のどの番号にも掠っていなかった。宝くじなら全部大外れといったところだ。嫌な予感で少し体が震えている。少々お待ちいただいてもよろしいですか、と言って保留ボタンを押すと、浅い深呼吸をした。

 走って幡見さんのデスクまで行き、アキタストアから聞いた口座番号を確認する。幡見さんはその番号を聞き、紙発注のことを相談したときと同じように、むむ、という顔で天井を見上げた。そして私の方を向き直って、僕が知っている限り、そんな口座はない、確認するからアキタストアさんには年始にお伝えすると謝っておいて、と指示を出しすぐに立ち上がって社長席のほうへ歩いていった。

 

 そこから数時間のうちにこの騒ぎは急展開を迎えた。結論からいえば、山内さんがとある詐欺グループの一員だったのではないかというのがその着地点だった。警察に届け出たところ、口座番号が最近凍結措置が実施されたものと一致したのだ。凍結されていたせいで振り込めなかったらしい。その凍結された法人口座の名義人も詐欺の被害者のようで、結局まだ犯人は捕まっていないのだと聞かされた。さらに追い打ちをかけるように、山内さんの捜索願が出されていなかったことも分かった。両親もダミーだったのだ。もう一度同じ番号にかけると、呼び出し音が永遠に鳴るだけで受話器を取る者は誰もいなかった。

 請求書通りに振込がされているか、確認するのは私の仕事だった。けれどその確認は前任の頃から四半期に一回程度まとめて行うのが通例になっていたのだった。長い付き合いの取引先が金額をちょろまかすなんてことはあり得なかったからだ。最近は電子発注も増えたこともあり、余計に紙ベースの振込確認に対する意識は下がっていた。確かに急に紙発注が増えたのは先月下旬からだった。発注から振込まで半月以上かかるため、私が確認しないことを見越して攻めてきたのだろう。ファックスが急に増えたタイミングで確認すべきだった。

 担当の刑事は続ける。口座は凍結されてはいたけれど、ほとんど中身は空っぽになっていた、被害額はこれから調べるが今のところは全く分からない、と。山内さんはだいたい三十社弱の取引先に請求書を送っていた。このうちどれだけの取引先が騙されてこの口座へ振り込んでしまったのだろう。全く予想がつかない。この結末を分かっていながら、素知らぬ顔をしてファックスのことを指摘してきた彼女の顔を思い浮かべる。お腹の前で揃えていた手が震えていた。

 警察署を出たところで、このまま帰ってもいいよ、お疲れさま、と社長に言われた。確かにもう夜遅い時間になっていた。社長に頭を下げて逃げるように帰った。責任の一端は私にあると、責められているような気がしてならなかった。道中その重さはみるみる増していき、自分のせいで会社が潰れてしまうかもしれない、と思いつめるまでになっていた。その不安は自分の頭の中で、ほとんど確信に近い状態のまま脳内を占拠した。

 足元に広がる大きな穴が、実際に見えるような気がした。

 

 

「きゅうちゃんお帰り」

 居間には葵さんと香里さんがいた。この八日間、家には私とこの二人しかいない。

 あの日、私がふらふらしながら出社したあと、志津さんの体調が悪くなりそのまま入院することになってしまった。五人のなかで一番アクティブで何処へでも駆け出して行ってしまうような彼女が入院とは。それ以来家の中はがらんと寂しい。

 家の中が三人きりになってしまってからは、会社で起きたことを気軽に愚痴れるような、からっとした空気はなくなってしまっていた。しかも小さな会社の同僚に犯罪者がいて、その人に私はまんまと騙され、会社が危機に直面しているのだ。映さんがいたときの空気であっても言えなかったかもしれない。

 身を寄せ合うように三人で居間のソファに座る。

「映さん見つかりそう?」

 淀んだ空気に私の言葉が投げ込まれる。それは腐った果実が重力に負けたみたいに情けなく、ぼとっと落ちた。

「ううん全然。電話出ないし、LINEも既読つかないし」

 葵さんがうなだれたまま言う。三人が三人とも居心地悪そうに身じろぎした。けれど誰一人として、眠りに落ちるその直前まで居間から出ていこうとはしなかった。これ以上、何も変わらないでほしいと願っていた。

 

 

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 足元に広がっていると思っていた穴に、私はもう落ちているのかもしれない。数年ぶりに人から殴られる感触を思い出しながら、ぼんやりとそう思う。映さんの婚約者であろう大男の後ろで、映さんが小さい悲鳴をあげているのが聞こえた。そう、彼女たちは、その配偶者の脅威を見せつけられると、ひいひいと絶えず怖がってみせるけれど、守ってくれやしないのだ。愛する娘を、家族同然の若者を、守ることなど考えたことすらないのだろう。彼女たちは彼女たち自身がいちばん可愛い。その次は彼女たちの男、あとはおまけのようなものなのだ。私はそういう紙の上に針であけたような小さな小さな視野で生きるひとたちが、そのまま生きていくために必要な生贄の人形だった、生まれたときからきっとそう決まっていたのだ。かみさまが決めた人生に抗おうなんて、たちの悪いことはしないほうがいいのかもしれない。そういう出鱈目で粗悪な神話を信じてしまいそうな私がいる。

 

「きゅうちゃん」

 映さんがか弱い声で言った。

 

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 十二月三十一日、大晦日、私は会社の最寄り駅にいた。会社の休暇が始まってから、山内さんのLINEアカウントは無くなり、会社の携帯も電源すら切られ、彼女が二度と姿を現すことはないということがほぼ宣言されたような状態になった。「ユーザーがいません」と表示された会話履歴の画面がまだ信じられない。ただ家にいるだけで罪悪感が募った。彼女の詐欺行為にもっと早く気がつけたんじゃないかと、これからすべきことが数え切れないほど待ち構えているのだろうと、いてもたってもいられなくなった。何より自分のせいで会社がどうにかなってしまうかもしれないという恐怖が、私を会社へと駆り立てた。

 ターミナル駅から一駅離れたここは、住宅街とオフィスがモザイク状に混ざり合って共存しているような街が、駅を中心にして円を描くように広がっている。改札を出て会社のある南口へ出ようとしたとき、その真逆の方向へ歩いていくひとつの背中が視界に入った。

 映さんだった。

 

 映さんはうちを出ていったときと同じ、ファーのついたダウンコートを羽織り長身の男性と連れ立って歩いていた。それが婚約者であることはほぼ確実だった。私は一瞬ためらったあと、意を決して彼らに近づいていき、映さん、と呼びかけて彼女の二の腕を掴んだ。

 映さんは背後の声に気がつくと、驚くほど緩慢な動きでこちらを振り返った。まるで現実から十分に距離を取るように。そしてすうっ、と息を吸うと、それを飲み込んで、ああ、と小さな声を漏らした。私という存在に怯えていた。

「誰だお前」

 映さんの小さな声を搔き消すように隣の男が言った。

「知り合いか」

 映さんに訊ねるその声はほとんど脅しのようにどす黒い。

 そう、という、ほとんど消え入りそうな声を聞くや否や、その男は途端ににこりと笑んで、こんにちはと挨拶の言葉を口にした。社会人という面の皮を長年貼り付けてきたビジネスマン特有の、何重にもかさなった口元の皺が波打つように現れている。

「初めてお会いしましたね。映はあんまり知り合いや友達を紹介してくれないから」

 私はそれに答えず、映さんを返してくださいと言った。

「映さんを返してください。まだちゃんと送り出せてないんです、私たち」

 男の目の色が変わった。

「私は映さんと一緒に住んでいる者です。みんなまだ映さんを待ってるんです」

 私の言葉を聞くや否や、彼は不快そうに鼻で笑って私を見下した。

「お前もあのくだらない宗教の信者か」

 否定することもできたけれど、彼は本当に私が宗教信者だったのかを問いたいわけではないのだ。ただ人を辱めて有利な立場を取るためだけのからかいだ。だから私はそれに答えず、戻ってきてほしいんです、映さんが急にいなくなるから、みんな混乱しちゃって大変なんです、と続けた。

「映は映の意志で俺のところに来たんだよ。まるで俺がさらったみたいな言い方だけどさ、悲劇の主人公ぶってないで現実見ようよ」

 映さんは口を閉ざしたまま。男にも、私にも、怯えている。

「違います。もし映さんが自分の気持ちに従ってここにいたとしても、今まで一緒に暮らしてた私たちになんの挨拶もなしはおかしいんじゃないですか。全部リセットして、忘れた気になっても、忘れられた側は納得いきません」

「手紙は書いたよ」

 固い路面を見つめながら映さんはぽそりと言う。まるで小学生の言い訳みたいに。

「それが自分勝手だって言ってるの。一方的だって思わないの」

 そう言って彼女に一歩近づこうとした瞬間、男に鞄のハンドルを掴まれた。ぐっ、と握られたかと思うと、そのまま無言で歩きだした。鞄を犠牲にすることも選択肢としてはあったけれど、会社がひどい状態に成り果てている今、そんな無防備なことができるはずもなかった。どこまでも姑息で卑怯で小賢しい男だ、引かれるがまま大股で住宅街へと入っていく。私たちの後ろを映さんが早足でついてくる、これから何が起こるのか、彼女も大方予想がついているのだろう。彼女の表情にはその恐怖を経験したものだけが身につけるある種の諦観のようなものが浮かんでいた。身勝手な人間がその強い立場を利用して密室に連れ込んだあと、相手の身に起こるのは性的暴行か、そうじゃない暴行だ。

 

 

 数時間後、私は「そうじゃない暴行」を受けた末、マンションの一室にある納戸のような暗い部屋に閉じ込められていた。エアコンもストーブもない。シンプルに殴られるだけでよかった、映さんの前で脱がされたらさすがにまともな精神を保てる気がしなかった、と思った時点で私はもうまともではなかった。男は繰り返し繰り返し、私を罵倒しては「映とは二度と関わるな」と吐き捨てた。映は俺が守る、とも口走っていた。彼の脳内ではどんな物語が巻き起こっているのだろう、私は目や鼻を守るように顔を覆って身を縮めながら、人間の不思議について思いを巡らせた。彼は彼の正義で動いているのだろうか? きっと違う。彼は彼が私を殴ってもいい理由を必死にでっち上げていたのだ。映さんを守るために男は私を殴っている、そういうことにして、思い切り拳を振るうのだ。ひとしきり罵倒が済んだあと、彼は私のことなんか今すぐにでも忘れたいとでも言うようにそそくさと部屋を出ていった。じんじんと痛む関節と、おそらく大きな痣が出来上がっているであろう背中が落ち着くのを待ってドアノブを下ろそうとしてみたけれど、外側から鍵がかかっているようで全く動かない。マンションの一室に「内側から開かない」部屋があるという時点で彼はかなりの「玄人」だということが分かる。もう私の頭の中ではほとんど見捨てている映さんではあるけれども、やはり連れて帰るべきなのではないかと強く思った。

 

 しばらく何もないその部屋で、背中をかばいながら横になっていた。まるで高校時代までの自分に戻ったようだった。大きな男から意味不明な理由で殴られ、放置され、しばらくするとやはり意味不明な理由で解放される。その繰り返しだった。彼はまるで私を殴る正当な理由があるかのように大きな、大きな声で語っていたけれど、自分自身でも分かっていたのだろう、大きな声でも出さない限りその主張など通るはずもないことを。体の中がぽっかりと空いて、虚しさだけがぎゅうぎゅうに詰まっているような気分だった。私はあの場所からうまいこと逃れたと思っていたけれど、私の人生は結局誰かに殴られるように仕向けられているのだろうか? そう思わずにはいられないくらいあまりにも簡単に暴力に陥ってしまった。大きな穴に、落ちたのだ。マンションの外廊下から、どこかの家で流れているテレビの音がしている。今日は大晦日だ、どこもかしこも特番で賑やかだろうと思った。

 

 どのくらい時間が経ったのだろう。固い床ですら寝入りそうになるほど長い静寂のあと、急に扉が開いた。

「きゅうちゃん」

 映さんが私の鞄を持って部屋に入ってきた。私の前にぺたんと座り、

「ごめんねきゅうちゃん」と呟いた。

 私より憔悴しているその顔を見て私は思わず訊ねた。

「映さんも同じことされてるの」

 映さんは否定も肯定もせず、着ているクリーム色のニットを捲って脇腹を見せてきた。そこには黄色や紫色や青色をした、まるでキャンバスに絵の具を投げたみたいな大きな痣が広がっていた。そして、また、ごめんねと言った。

「ここに来るまではこんな人じゃなかったんよ」

 映さんはまだ彼のことを信じていた。彼の中で何かが起こったと思っているのだった。しかし変わったのは彼ではなく、彼と映さんの関係なのだ。彼の自己中心的で独善的な認識によって、映さんは「彼に殴られても構わない人」に変えさせられてしまった。私は上半身を起こして鞄を受け取る。

「みんな映さんのこと待ってるんだよ」

 細く開けられた扉から、淡く明かりが差し込んでいる。私は続けた。

「今なら間に合うよきっと。帰ってきてよ」

 映さんは閉じられた口をさらにぎゅっ、と固く結んだ。目を閉じて、ふるふると首を振った。

「どうしても?」

 頷いた。そして目を閉じたまま言った。

「愛してるの。それは本当なの。相手も私のことを愛してくれてるの。だから後がなくなって、退路が絶たれて、最後の最後に、もし死んじゃったとしても、もうそれでいいの。そうやって生きることが、私の運命だと思うから」

 運命、と言った彼女にいくらかの白々しさを覚えた。愛という言葉によって目隠しをされながらふらふらと踊るお遊戯のせいで私が痣だらけの血だらけになったことも、運命の前には致し方なしとでもいうのだろうか。彼女の目と言葉の端々に嘘はないことが殊更、この状況の救いようのなさを際立たせている。帰ってくるなら、もし彼女が私の言葉に反応して、帰ってくることになっていたのだったら、私は映さんのことを完全には諦めなかっただろう。けれど、彼女は自ら吊り橋に火を放つように、足元の薄氷を割るように、私たちを遠くに追いやった、しかも最低のやり方で。もしかしたら、彼女があの町を出ていくことになった教団の「空中分解」も、これとよく似た彼女の土壇場劇によるものだったのかもしれないと思った。繰り返している。そして、彼女はどこかで楽しんでいる。この悲劇に酔いしれている。

「私たちは」

 もう彼女を責める体力すら残されていなかった。淡々と言葉を放った。

「私たちは、もうあなたを助けないよ。映画やドラマの主人公みたいにパワフルな人間じゃないの、みんな。あなたの物語に落とし前をつけるんだったら一人でやって。私がここに連れ込まれるのを、殴られるのを、黙って見てないで。残される人たちの心の中に、中途半端に存在を残さないで。消えるならちゃんと消えてよ」

「ありがたいと思ってる。私を住まわせてくれたこと、一緒に暮らしてくれたこと。でも今日で終わり。私はあなたのことを忘れる。あなたが一から全てをやり直すなら、私も自分の人生からあなたのことを取り除く。そういうことだよ、あなたがしてること」

 映さんは家を出ていったときと同じように、ぽろぽろと涙を流していた。私が言っていることをひとつひとつ理解しているわけではないのだろう。責められている私、というシーンを演じているだけなのだ。これ以上ここにいても何もいいことはなさそうだった。私は無言で泣き腫らしている映さんを置いてマンションを出た。

 

5

 しんとした街、アスファルトで固められた道は私の足音をも吸い込んでしまう。月は空の上に晒されたり雲に隠されたりしながら静かにそこにあった。歩くたびに全身が痛んだ。私はただひたすら進んでいた、いつもよりもずっと覚束ない足取りで、確実に。時間は深夜二十三時をとうに回り、あと十五分ほどで新年を迎えるようだった。

 私用携帯にはLINEの通知と着信履歴がいくつも残されていた。葵さんと香里さんからのものだった。返事はせず、鞄へとしまい込んだ。私にはまだやらなければならないことがあった。痛みと眠気で狭まった視界に映っているのは目の前の道と真っ暗な空の色だけだった。無意識のうちに涙が頬を伝い滝のように流れていた。映さんに放った言葉が正しいのかどうか、私には分からなかった。そうするしかなかったのだと納得しようとする自分と、映さんもまた被害者であると責める自分がいた。それらは天秤にかけようもなく、頭の中でひたすらぶつかりあっていた。

 山内さんが私に投げかけた言葉を思い出していた。来年から決めてみようよ、まっさらなときに何か決めるのって楽しいよ。あと十五分で世の中は新しい年を迎える。私は考えてみた。来年は、何をしたい? 駅前を通り過ぎ、人混みの中を掻き分けて進んだ。年越しに沸く若者たちが私の形相を見てぎょっとしたように飛び退く。私は、私は、何がしたいのだろうか。嘘で塗り固められた山内さんの思い出や愚痴を受け止めていた私が、逃げて来た先でまた馬鹿みたいに殴られている私が、来年、何をするっていうのだろう。駅前に設置されているモニターが、今夜だけテレビの生放送を流している。画面の中では、アイドルグループが笑顔で踊っている。サイリウムを持った観客たちが色とりどりの光を揺らしている。来年、来年、私は唱えている。まるで夢みたいなことが起きたらいい。家族が、父と母がまともになって、暴力も罵詈雑言もなく、清潔で笑顔で、私のことを抱きしめてくれたらいい。死んだと思っていた姉が実はどこかで生きていて、他の兄や姉も逃げた土地から集まって、私より先に生まれた子どもたちが皆揃って私を迎えてくれたらいい。映さんの婚約者が映さんの元旦那さんのように急に死んで、また元どおりになればいい。ごめんねきゅうちゃん馬鹿だった、もう出ていかないよと笑ってくれたらいい。山内さんも何事もなかったように出勤してきて、偽の口座番号も詐欺グループも、私の妄想だったということになればいい。体調を崩して寝込んでいて、携帯も電池が切れただけなんだと言ってくれればいい。全部ただの夢だ。夢のまた夢だ。ほとんど嘘のような夢だ。

 私は何かを取り戻したい。ひとつでもいいから取り戻したい。けれどそれはもう二度と叶わない。分かっている。けれどそれ以外に思いつくことなどなかった。それでも立ち上がって生きていかなければいけないなんて、残酷すぎると思った。思いながらも、私は歩いている。それが紛れもなく、私が私である証拠なのだ。高校の卒業式の日、私は今と同じように一人きりでただ前だけを向いて、自らが進むべき方向を定めて歩みを進めていた。立ち止まることはなかった。夢を見ながら、その夢が敗れたことを知りながら、けれどただ進むことを諦めなかった。新年、あたらしい年には何がしたい? したいことなど何もない。ただ私が進むことを、生きていくことを、阻む何かが現れなければいい。鞄の中でまた携帯が光った、あと五分で次の年が始まる。

 人混みは再び途絶え、黙々とオフィス街を歩きながら、私は広い広い、あの町の駅舎を思い出していた。卒業する一ヶ月くらい前に建て替えが終わったぴかぴかの駅舎だった。白いホーム、ガラス張りの待合室、一つから三つに増えた自動販売機、がらんとしたそこで私は一人電車を待っていた。他のクラスメイトたちは皆卒業アルバムにそれぞれの別れの言葉を書き合うことに夢中で誰一人として校舎を出ていなかった。私は卒業アルバムを買うことすらできていなかった。足元を見る、くたくたに汚れたスニーカーがうつる、真新しいホームの白い床とのコントラストが目に痛い。やわらかな風が吹いて、電車がホームへと近づいてくる。ここではないどこかへ行ったきりになってしまえることがとてつもなく嬉しかった。

 ようやく、会社の事務所が入っているビルに着いた。入り口のガラス戸を押してみるとあっさりと開く。メンテナンスの為か停止しているエレベーターを突っ切って、外階段を見上げる。あのときぼんやりと見つめたあの足は、今パンプスを履いて、階段を上ろうとしていた。遠くへ来たなと思う、けれどこの体はあのときから何も変わっていないのだ。痛めつけられ、大切なものを失い、それでもどこかへ行こうとする渡り鳥のように、私はただ進むひとつの生き物として命を燃やしている。ヒトとして、まっとうに生きていけるのか、私には自信もないし、分からない。生きれば生きるほど複雑に迷宮入りしていく。けれど前へ、進む。歩いていく。穴に落ちても、そこから這い上がれなくても、もし這い上がれたとしても、また別の災難に遭っても。

 

 三階の事務所の玄関は、当然のように開いていなかった。社用携帯を出して社長に繋いだ。あと数分で私たちは新たな年を迎える。社長は数コールですぐに電話を取った。

「波多野さん?」

 社長は少し酔っぱらっているのか、少しふらふらした声でそう言った。居間のすぐ側にいるのか、ざわざわしたとテレビの音とそれを見ているのであろう人々の声がする。

「どうしたの、かけ間違い?」

「事務所を開けてください。鍵はどこにあるんですか」

「何何? どうしたの?」

「社長、私、やらなきゃいけないことがあるんです」

 扉に寄りかかる。ガラスの冷たさがコート越しに伝わった。私は繰り返し、事務所に入りたいんです、今すぐに、と言う。

「波多野さん? 大丈夫?」

「社長ごめんなさい。本当にごめんなさい。私がもっとちゃんとしていれば、山内さんにこんなに好き勝手させないで済んだはずなのに」

 言いながら、自分でも混乱していた。なぜ私は今ここにいるのか、自分自身、説明がつかなくなっていた。

「私もっと頑張ります。今できること、あるんです絶対。まずアキタストアさんに謝罪を入れないと。他のお客さんにも説明をしに回らないといけないですよね。資料作ります。だから、だから、ここにいさせてください」

「ちょっと、大丈夫? 酔ってる? 今どこにいるの」

「事務所の前にいます。鍵の場所を教えてください」

「鍵は全部私が家に持ち帰ってるよ」

「開けてください。ここを追い出されたら私、もう居場所がないんです。これからは請求書も私が作成します。幡見さんと知念さんの業務も引き取りますから。もちろん新しい方が入って来たらちゃんと確認を」

「落ち着いて。波多野さん。落ちついて」

 私は玄関扉にもたれたまま、ずるずると尻餅をついて息も絶え絶えに訴えていた。前を向く、前へ進む、立ち止まってはいけない、私の頭の中でそれだけが無限ループしていた。さもなければ死んでしまうから。来年も、再来年も、その次も、次も、次も、私は、進み続けなければならない。羽を休めている暇はない。それが私の人生の、ただひとつの矜持だった。ひとりぼっちだった私が自分の心の中に唯一見つけた、真実のようなもの。もはや涙も枯れ、頬の輪郭に沿ってわずかに跡を残すだけになった。十八の私をまた思い出す。あのとき私は紛れもなくどこかを目指していた。逃れるという負の力と、向かうという正の力が同時に作用していた。何も持っていなかった私は、けれど無敵だったのだ。今はどうだ。どこから逃げるべきかも、どこへ向かうべきかも、もはや何もわからなくなっていた。目の前が真っ暗になる。前へ、前へ、私の頭の中で同じ言葉だけが響き渡る。ねえ、前って、いったいどっちなの。あの頃の私に訊ねても、答えはない。うまく呼吸ができなくなる。痛みと眠気と酸欠で意識を失う数秒前、波多野さん、と焦ったように呼びかける社長の声の背後から、ハッピーニューイヤーと、大合唱のように揃った喜びの声がどっと沸いた音が、ほんの僅か、耳に届いて消えた。

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