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 その日は結局ファックスから溢れ出てくる紙の注文票を捌いているだけで終業時間がきてしまった。明日は金曜日だし、週末に仕事を溜めまくるのも憚られて少し残業をしようかと考えているうちに、周りにいた数人の同僚は帰り支度を始めている。どうしたって自分が今日の戸締り担当になりそうだった。波多野さんよろしくねー、という社長の呑気な声にはーいと返事して、事務椅子に座り直した。

 注文票を商品別にまとめて、他社との共同倉庫宛てに依頼書を作成する。これだけの仕事に丸一日以上費やしていることに心底うんざりした。いつもは電子発注ばかりなのでそこまで手間取らないのだけれど、ここ数週間は何故だかファックス経由の紙発注がやたらと増えたのだった。それに営業部に山内さんが入ってからというもの、新規の取引先がすこしずつ増えてきたこともあって私一人で捌ける量ではなくなってきていた。

 古いウォーターサーバーのモーター音だけが響いている事務所は、電話も鳴らずほんのり寂しい。入力を終えた紙の注文票をファイルにまとめたところで、おや、と思う。今までずっと電子発注だった取引先である「アキタストア」から、大量の紙の注文票が届いていた。明日担当の営業さんに聞いてみようとメモ帳に書き留めてから、放置していた電子発注のデータベースを開く。ここまでくればあと一時間で帰れるだろう。

 

 

「きゅうちゃんお帰りい」

 いつもより二時間半ほど遅く帰宅すると、バスタオルで髪を包んだままテレビを見ていた志津さんが、少し心配そうな顔で私を出迎えた。かわいいクマ柄のパジャマを着ている。

「なんか今日遅くない? 飲み会かなんか?」

「んーん」

 ざんぎょー、と言いながらマフラーとコートを脱いでソファに投げた。コートの袖が志津さんに当たったけれど、彼女はそれに構うこともなくテレビに向き直った。

「お風呂いま映さんが入ってるから。その後の予約はないよ」

「じゃ映さんの次で」

 テレビでは日本の離島の自然を売れっ子芸人が満喫する、みたいな番組が流れていた。志津さんの趣味はサーフィンとスキューバダイビングである。次の夏はこの島へ行くかもしれないな、と思いながらタイツを脱いで居間を出た。

 自室のある二階へ上がり、マフラーとコートと鞄をしまう。そして窓から差し込む街灯の光をカーテンで遮ってからシーリングライトをつける。リモコンのボタンを連打して一番暗い設定にすると、やっと気分が落ち着いてベッドに倒れ込んだ。

 

 映さんは、私の地元にかつて住んでいた、変な宗教を信仰するやばいおばさんだった。もう口にすら出さないけれど、名称の時点ですでにかなりださく、SNS上でおもちゃにされていたこともあった。そんななか、当時ずぶずぶにその宗教にはまっていた映さんは、隣町まで含めておそらくすべての家々を勧誘しに回り、当然のように煙たがられる存在になっていた。私も映さんに対する印象は決して良くはなく、彼女がついにその町を出ていくタイミングで、なぜだか知られていた私のメールアドレスに、勧誘文句と引越し先の住所、そして「いつでも電話してくださいね」と添えられた電話番号が送られてきたときは気味悪さに鳥肌が立った。

 ただその当時、私はすでにお人形ではなくなっていて、高校卒業と同時にここを出て行くことを半ば決定事項として自分の心の中に秘めていた。そしてそれは全てを失うということだと分かっていたので、逃げ出すとき「誰にでも底抜けに優しい」宗教信者を利用すべくそのメールとスクリーンショットを残していたのだった。面倒なことになったら逃げてしまえばいいくらいに思っていた。私の中で「逃げる」というアクションはもはや、ポジティブで勇気のある素晴らしい言葉としてなんの抵抗もなく選択できるようになっていた。

 けれど、幸運と呼ぶべきだろうか、公衆電話から運よく繋がった映さんは、もうすでに宗教活動をやめていた。というより、宗教がなくなっていたのだった。

 もうねえ、きゅうちゃんたちを勧誘してた頃には、ほとんど信者もいなかったんよ、と、数年ぶりに再会した映さんは言った。私の夫が二代目の代表だったんだけどね、急に死んじゃったの、突然死。そしたら周りの人たちからあることないこと言われて、内部でアレコレあって、空中分解、っていうの? バラバラになっちゃった。つとめて明るく映さんは続けた。だからやめたの。大事な人もいなくなっちゃったし、何を信じればいいかとか、もう考えるの馬鹿らしくなっちゃって。だから今まで一緒に活動してた人たちをあつめて、どこかで静かに一緒に暮らそうよってことにしたの。せっかくだし東京行って、生きれるだけ生きて、ダメだったらみんなで死んじゃおうよって。

 そう語る映さんは昔よりずっと顔色が良かった。そしてにっこり笑った。

「今のところ全然死にそうにないけどね。夫に悪いなと思ってるくらいだよ」

 

 映さんが階下から、おふろでたよー、と声を張り上げるのが聞こえた。私はベッドから降りる。

 

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 翌日、出勤して早々、アキタストアの営業担当である幡見さんのデスクに寄った。幡見さん今お時間いいですか、と横から声をかけると、湯飲みの中でほうじ茶のティーバッグを揺らしていた幡見さんは、はいはい、とよく通る声で答えてこちらを向いた。

「昨日、注文票の整理をしてて気になったんですけど」と言いながら、ファイルを開いてポストイットを挟んでおいたページを見せる。「アキタストアさん、先月までほとんど電子発注だったじゃないですか」

 幡見さんは書類を一瞥すると、ちょっと待ってねという感じで右手を少し上げ、引き出しから老眼鏡を出してきて鼻の上にやんわりと掛けるとじっ、とその書類を覗き込んだ。そしてひょいっと眉を動かした。

「あー、……波多野さんこれね、ちょっと前から担当変えてもらったんだよ」

 幡見さんいわく、先月末あたりからこの取引先の担当は山内さんに変更になったのだとのことだった。山内さんが頻繁に新規開拓をしていると聞いて、新規の取引先を一社担当させてほしいと言ったのだという。

「山内さん、入社してからすごく意欲的じゃない。だからおじさんも新規のお客さんに挨拶させてもらって、最近の業界のこととかちゃんと勉強しようかなってね」

 そう山内さんに持ちかけてみたところ、二つ返事で快諾されたらしい。その代わり、営業成績が落ちてしまうから幡見さんの担当と入れ替える形でどうでしょう、という話になったのが先月末だったのだという。

「でもなんで紙になったんだろうねえ、僕はちょっと分からないな」

 幡見さんが老眼鏡を引っ掛けたまま思案するように上を向いた。

「紙から電子に変更になるなら分かるんですけどね」

 とにかく山内さんに聞いてみます、と言いつつ自分のデスクに戻った。山内さんの予定を見ようとGoogleカレンダーを開くと、今日は有給休暇取得日、そして来週から一週間は主張で静岡と愛知をまわると表示されていた。

 今日もファックスは元気に紙を吐き出しまくっている。

 

 モヤモヤした気持ちを抱えたままお昼休みになり、近所のコンビニで買ったそぼろ弁当を食べているとLINEの通知が鳴った。見てみると、志津さんが映さん以外の「同居人」たちを集めたグループを作成したみたいだった。グループ名は「会議」。なんだか物々しい。何があったのだろうと開いてみると、

 

––ちょっと

 

 とだけ志津さんが発言していた。なんだなんだと思っているとすぐに二言目を受信した。

 

––ちょっとみんな聞いて。すぐ聞いて。映さん再婚するらしいんだけどさ!

––さっきのは焦って途中で送っちゃいました

 

 映さんが再婚。思えば彼女が夫を亡くしてからもう六年ほど経っていた。

 吹き出しの下には既読三人とついている。みんな「すぐ聞いて」いる。

 

––ひえー再婚!

 

 葵さんが即レスする。彼女は確か今日お仕事が休みだったはず。

 

––そうなの。だけど私あんまり

––応援できない感じかも

 

 私も何か言ったほうがいいかなと思案しながら箸を動かしていたせいで、スカートにそぼろが落ちる。ティッシュでつまんでゴミ箱に捨てにいって戻ってくると、志津さんからの情報はあらかた共有された状態になっていた。

 

––映さんね、半月前くらいに新宿で見かけたの。デートしてる感じだったからあれって思って週末に突っついてみたら「他の人にはまだ内緒ね」みたいな感じで

––クリスマスあたりに婚約するかもーみたいな話をされたの

 

––ふつうに喜ばしいことじゃない。だからよかったねーって話ししてたんだけど

 

––詳しく話を聞いてみると、なんか変っていうか、怪しさ?みたいなのがあって

––一人で考えてるの苦しくなってきちゃったわけ…

 

 葵さんと香里さんが小さく相槌を打ちながら続きを促しているところをさらに読み進めた。

 

––別に不倫とか、そういう方面で怪しい感じはないんだけど

––なんていうか、一方的に言い負かすタイプっていうか、暴力旦那になりそうな感じがするんだよね

 

 志津さんの情報によれば、映さんの恋人は映さんと同じ五十四歳、仕事はIT関係、役員を務めている会社もあるらしく、それが嘘ではないことは分かっているとのこと。社会的には全く後ろ暗いところのない人なのだそうだ。問題なのはその婚姻経歴で、すでに三回の離婚を経ている。離婚は全て彼の側から「振り」続けてきたという。子どもはそれぞれの嫁に一人ずつ、養育費を払っているかどうか定かではない上に、過去のことは何を聞いても「元嫁とのことだから」とか「プライバシー」とか言って全く話してくれないらしい。それだけではなく、映さんの離婚歴や入信していた宗教については、根掘り葉掘り聞き出した挙句何かにつけて貶めるようなことをぺらぺらと喋るのだそうだ。本人曰く「気まずい過去を笑いに変えて昇華させてあげているだけ」とのことで、まったく反省の色はない様子。おまけに飲食店の店員などには横暴、酔っているときなどは平気で大声で喚き胸ぐらを掴んだりするらしく、映さんには今のところ何もしていないとはいえ、かなり危険であることは間違いない。

 明らかに色々とやばそうな経歴を持っている彼の話に志津さんが苦虫を噛み潰したような顔をすると、映さんはあわてて言うのだ。「でもいい人なの」と。頭も良くて一緒にいると楽しくて、……

 

「……次は最後の結婚にしたいとか言ってきたんだってさあー」

 志津さんは缶チューハイを片手にそう吐き捨てた。

 映さんが職場の介護施設の夜勤シフトである今日を狙って、志津さんは「会議」を招集した。東京二十三区の端っこ、都営地下鉄の終点駅から徒歩十五分の中古一戸建てに女四人が顔を突き合わせ華の金曜日を過ごしている。お昼にアナウンスされた映さんの恋人の件について、結局なにも結論は出ていなかった。もちろん簡単に出るような話ではないから「会議」をしているわけなのだけれど。

「志津ちゃんは写真とか見たわけ、そいつの」酔っているというより若干眠そうな香里さんがソファに肘をついたまま投げかける。「人相とか、どうだったのかなと」

「見た。見たけどねー別に変な人じゃなかったよ」

 私は居間のローテーブルを囲んでソファに寝そべったりテーブルに寄りかかったりしている三人を見ながら、膝を抱えて三角座りをした状態のまま小さくうなづいてその話を聞いていた。この手の話は私がここに来てからもう四回目になる。前回は志津さんの再就職先について、その前は葵さんの新しい彼氏について、さらにその前は香里さんの元旦那さんの葬儀についてだった。いつもこうやって机とお酒を囲んで一晩話をすればあらかた道筋が見えるものだったのだけれど、今回はどうだろう。志津さんが箱買いしたチューハイをさらに三ツ矢サイダーで割った透明な液体にちびちび口をつけていると、志津さんが「きゅうちゃんはどう思う」と私を振り返った。

「えっ、私ですか」

 参加だけしておけばいいのだと思っていただけにいきなり発言を求められてしどろもどろになる。全員が不惑をとうに過ぎている彼女たちの会話のなかにいると、まるで親の井戸端会議をぼんやり見上げている小学生みたいな気持ちになってしまうのだ。

「どうって言われても、私結婚どころか彼氏もいたことないし」と言い訳を絞り出すと、隣でねぎまを皿の上で分解した上でねぎだけをつまんでいた葵さんが「関係ないない」と即座に退路を絶ってくる。

「恋愛なんて誰でも一生初心者よ」

「そうなんですか」

「そうよ」

 葵さんは前々回の会議でギャンブル依存症の新しい彼氏とは即座に手を切るべしという判断が下されていた。

「とにかく私が一番恐れてるのはね」

 志津さんはずっと缶チューハイのロング缶を握りしめている。酒乱みたいな見た目になってしまっているけれど、あまりお酒に強くはないはずだからおそらく中身は三分の一も減っていない。彼女はぼやぼやした表情のまま目を伏せて呟いた。

「このまま映さんがあの男とすーっと結婚しちゃったら、私はきっと笑顔で送り出せないの。おめでとうって言えないんだよ」

 小さい音で流しっぱなしにしていたテレビの、今日の放送が終わった。

 がちゃがちゃしていた空気が一転、急にその場が緊張感に包まれる。

 香里さんが志津さんの肩をぽんと叩き、そのまま背中をさすった。志津さんは少し泣いていた。

「映さんには幸せになってもらいたいじゃない、いろいろあったんだからさ、私たちみんな」

 震えながら発せられたその言葉に嘘はなかった。そして私も、全く同じ気持ちだと思った。

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