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 あれから一週間が経った。けれど、山内さんが職場に姿を見せることはなかった。

 出社する予定だった週明け月曜日、彼女は誰にも連絡することなく欠勤した。心配した社長が午前中に何度か社用携帯に連絡を入れたけれど、留守電につながるだけだった。私も社長に言われて先週まわる予定だと言っていた会社にも電話をかけた。しかし彼らも、山内さんは予定通りいらっしゃって、予定通りお帰りになりましたよ、と困惑するばかりで、何も情報は得られなかった。

 

 結局その日、山内さんの行方ははっきりしないまま終業時間を迎えた。仕事中に送ってみたLINEも未読のまま、何も変化することはなかった。シンプルに彼女のことを心配する自分と、最近抱いていたモヤモヤを都合よく当てはめて推理ゲームをしている自分がちょうど半分ずつ、体の中で混ざり合っていた。

「明日も来なかったら本人の携帯にも電話してみようかな」

 社長が眉根を寄せながら、渋々、といった調子で呟く。今まで勤怠良好だった山内さんにどういった感情を抱けばいいのか決めかねている様子だった。今日も一番遅くなりそうな私は鍵を受け取って、帰り際の社長に投げかける。私も彼女に「何もない」ことを切実に願っていた。

「ご家族いらっしゃるんですよね。旦那さんに連絡してみても……」

 扉を開きかけていた社長は、驚いて私を振り向いた。ぽかんと、まあるく口を開けている。そして一言、

 

「山内さんは結婚してないよ」

 

 私の胸の中へ急速に、鉛のような重たい感情が去来した。

 

 

 残作業などほぼ手につかず、早々に帰路に着いた。玄関で傘を閉じ、まとわりついた雫を絞り出すようにして畳む。傘の先からぼたぼたと水滴がこぼれ落ち、玄関タイルの上を無秩序に跳ねた。靴箱の扉に立て掛けると、レインブーツを無言で脱いでそのまま二階へ上がった。自室で粛々とカバンとコートの水滴を拭い、黙ったまま部屋着に着替えてベッドに寝転んだ。もう今日はこのまま寝てしまおうと思った。寝て起きたら、ちょっとはマシになるから。今は亡き五歳上の姉が言っていた言葉を思い出す。彼女は私が小学四年生のとき父に殴り殺された。当時まだ父は真っ当に会社員をしていた、接待用に持っていたゴルフクラブで娘を殺したのだった。姉が死んでしまったことは町中で大騒ぎになったけれど、結局不審死ということで片付けられた。みな自分の町に虐待殺人者がいることを認めたくなかったのだ。少なくとも当時、田舎の小さな地域ではそういうことが当たり前のように起きていた。私もその犠牲になるのだということを、姉が死んだのと同じ年齢になったとき、急に喉元に突きつけられたのだった。社内で一人きりになってから、今までずっと、動悸が止まらない。私はなにも悪いことをしていない、けれども何か大変なことを起きている、そして、私がその何らかの、事件のようなものの、中心にいるような気がしてならなかった。山内さんは今どこにいるのか、なにをしているのか、生きているのか、死んでいるのか、教えて欲しかった。寝て起きたら、ちょっとはマシになるはず。私は祈っていた。明日になれば、明日になれば、何か少しでも分かるかもしれない、大したことじゃないかもしれない、山内さんは見栄を張っていただけなのかもしれない、そうであって欲しい、自分が、社会の、世の中の大きな穴の上を、綱渡りしているような気分だった。そしてその大きな穴は、いつも前や上を向いているから気がつかないだけで、いつも私の足元に口を開け続けているのだということが強烈に意識された。私には命綱がない。そして、落ちたらもうその後はない。

 

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 つけっぱなしにしていたファンデーションの不快感で目が覚めた。そのすぐあとに、部屋の入り口から向かって左隣の部屋で何か言い争う声が聞こえてきた。隣の部屋に面した壁には大きな本棚があるせいで内容までは聞き取れないけれど、激しい応酬になっていることだけははっきりと分かる。手元の携帯を確認するとまだ明け方で、新聞配達のバイク以外に物音などしないはずの時間帯だった。彼女たちはよく小競り合いの発展系のような喧嘩をしているものの、こんな時間帯に、こんなに尖った声で言い争っていることなど一度もなかった。昨晩の動悸が戻ってくるのが分かった。

 声は左隣の部屋の持ち主である映さんと、私を挟んでその真逆側に部屋がある志津さんのものだった。それだけで話の内容は大体予想できてしまう。想像しうる「明日」の中で最悪のものが始まってしまった。

 

 激しい言い争いはしばらくそのトーンを一定に保ったまま続けられた。私はじっと息を殺したまま耳をすませていた。参加することも参加権を放棄することもためらわれた。すると階下から物音がして、誰かが二階へと上がってくる。その人は映さんの部屋の扉を開けるや否や、大きな声で「うるさい!何やってんの?!」と怒鳴りつけるとそのまま部屋へ入っていった。葵さんだった。それから私の耳にも全ての内容が否応なしに入り込んでくる。もう眠ったふりをしてそのままやり過ごすのはほぼ不可能になった。

 

「だから私の好きにさせてよ」「映さんが死ぬのを見届けろってこと? そんなの絶対嫌だからね私絶対」「いつ私が死ぬなんて言ったわけ」「ほとんど自殺行為じゃないのそんな」「ねえこの話こんな明け方にしたって埒あかないでしょう、」「だって映さんがもうここを出て行くって」「戻ってくるってば」「いつ」「分からないけど、戻ってこれるから」「映さん、一回寝ようよ」「ダメなの、早く行かないとダメなんだよ」「どうして」「だって待ってるんだよ彼が」「婚約者のこと?」「そうだよみんなには、言ってなかったけど、ほらみんなに手紙書いたの、だから行かせてよ」「手紙なんか貰って納得できると思ってんの、いい加減にして」「……」「ここの家賃だって今まで通り払うから」「そういう話じゃないでしょ?!」「お願い、行かせて、お願い」「嫌、あんな男、教祖様と似たようなもんじゃないの」「志津!」「お願い」「助ける助ける幸せにしてやるって言って、結局あいつが何をした? 私らみたいな不幸な女集めてタダ働きさせてチヤホヤしてもらって、私たち何も助からなかった、だからみんなでお互い助け合って」「お願い」「助け合って生きていこうねって」「お願い」「決めたのに」「お願い、行かせて、もう決めたの」

 

 私は立ち上がり、寝乱れた寝間着姿のまま扉を開けて左隣を見やる。するとそこには今もう家を出ていかんとする映さんがいた。ボストンバッグをひとつ下げて、お気に入りのファーがついたロングのダウンコートを羽織り、脇目も振らず階段を降りていくのが見えた。私の存在には気付きもしない。その後を追う葵さんと目が合った。葵さんは少しはっとした顔をしたけれど、すぐに映さんを追いかけて一階へ行ってしまった。私も彼女たちを追いかけて階段の手すりに手をかけたところで、背後の不気味な音に気がつく。振り返ると、志津さんが窓のほう、つまり私に背を向ける形でダンゴムシのようにうずくまって何かお経のようなものを唱えていた。いや、それはお経でもない、全く聞いたことのない言語のように思えた。一音一音に何の意味もない、言葉を覚える前の赤ん坊が発するような、鳴き声に似た音。思わず駆け寄り背中を揺する。

「志津さん」

 志津さんは応えない。ただ必死に目を閉じて何かを祈っているように見えた。

「志津さん」

 直感的に、これが過去彼女たちが入信していた宗教の儀式のようなものなのだろうということが分かった。この宗教がSNSでおもちゃにされていたのは、その名称のくだらなさに加えて儀式の奇妙さによるものもあったから。

「志津さん」

 手を置いた背中が熱い。それが私のものなのか、志津さんのものなのかはもはや分からなかった。階下でまた言い争いが始まっているのが聞こえる。すると志津さんが急に目を開けた。

「馬鹿でしょう。私も、私たちも」

 息が止まった。志津さんが急に、老け込んでしまったように見えた。

「それでも生きていかれるならいいと思ってたんだけどねえ」

 それだけ言うと、黙ってまた縮こまり、動かなくなった。

 

 階下では玄関のすぐ手前で、葵さんが必死に映さんを引き止めていた。そこから数メートル離れた廊下の先で、その剣幕に目が覚めてしまったのであろう香里さんが、呆然とした表情のままその様子を眺めているのが見えた。

 お願い、お願いと連呼する映さんに、葵さんも論理的に説得することは諦めたようだった。とりあえず今日はゆっくり寝て、それから考えようよ、と、彼女の二の腕を掴み宥めすかすように呼びかけている。

「映さん」

 やっとの思いで彼女の名前を口にした。映さんの目が私の姿を見とめた。

「きゅうちゃん」

 一歩、彼女に近づいた。目が濁っている。

「映さん、どうしても今日なの?」

 葵さんに二の腕を掴まれたまま、映さんは苦しそうにうなずいた。

「何も言わないで出ていくの?」

 映さんは下を向いてふるふると首を振った。頬に涙が伝うのが見えた。

「みんなで生きてくんじゃなかったの? 私もその仲間に入れてくれたんだと思ってたのに」

「違うの」

「違くないよ。こんな早朝に。まるでここから逃げるみたいに」

 人を責めるのは生まれて初めてのことだった。自分の声とは思えないようなひどく硬い声がした。

「違うんだよお」

 子どもみたいに顔をぐちゃぐちゃにして映さんは泣いていた。ボストンバッグのハンドルを握る右手にはぎりぎりと音がしそうなほど力が入っていて、その意志が強いことがありありと伝わってくる。

「行かなきゃなんないんだよ。私にも私の気持ちのぜんぶは分かんないんだよ。でもあの人と一緒になって、何もかもやり直すの。それがしたいことだけはちゃんと分かるから。今じゃなきゃダメなんだよ。どうなっても、私が私の責任取れるから。やってみたいんだよ。覚悟決めてるの」

 ぼたぼたぼたぼた、と顎先から涙が床へ滴り落ちる。その場の空気がより一層、冷えていくのが分かった。

「ごめんねきゅうちゃん。私、きゅうちゃんと暮らせて良かったよ。教団とか宗教とか関係なく、娘みたいな年齢の子といっしょに住んでさ、まるで家族みたいだなって、思ってたよ。それでね、私また、また、……家族が欲しいなって思ったの。それはいけないことなの?」

 身体中の血が急速に冷えさまされていく。彼女は今、その場限りの言い訳に私を使っている、そう思った。感情に論理が伴わないとき、人は無意識に都合の良い理由を後付けするものだけれど、それを投げつけられるこちら側に立つとその気味の悪さと胸糞悪さがより鮮明に感じられる。彼女が私へ問う形で台詞を終えたその瞬間から、一秒一秒、彼女への信頼感や暖かな気持ちが砂のようにさらさらと消えていくのが分かった。

「最悪だよ」

 私がそう言ったのが先か映さんが葵さんの手を振り払ったのが先か、彼女は一目散に玄関へと飛び出しスリッポンを引っ掛けて家を出ようとした。まるで獲物を狙う肉食獣のように素早く彼女を追いかけてその肩を掴む。もはや彼女に抱いている気持ちはいいものも悪いものも一欠片もないはずなのに、私の口が発したのは彼女を追いすがるような言葉だった。

「帰ってきて」

 映さんは何も言わずに肩を払い家を出ていった。しんと冷えきったこの玄関よりさらに寒い空気がやんわりと外から入ってきて足元に絡みつく。そのとき初めて、今がまだ日の出前なのだということを思い出した。

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