4 / 5

.

.

.

 

 もうさあ、決めちゃったんだよ、私たちがなんか言ってどうなることでもないよ。映さんが行ってしまった方向をぼんやり見つめて動かない私を半ば抱きしめるようにして、葵さんが訥々と語った慰めの言葉が頭の後ろのほうで消化されないままずっと残っている。十二月二十八日、あれから八日が経過したけれど、映さんが帰ってくることはなかった。会社では、こちらも帰ってこない山内さんのことは彼女の両親が捜索願を出すということで一旦話が着地し、彼女がいないことによる影響については年始に改めて対応しようということになり、年末最終日の今日は社内の大掃除をしたら帰宅していいという、毎年恒例ののんびりとした日が始まっていた。

 

「そういや波多野さん、なんで山内さんが結婚してると思ってたの」

 向かいの席で自席を乾拭きしている知念さんが、ぽそりと、どうでもいい世間話みたいな声色で私に話しかけてきた。社内で起きた全てのことは一日あれば全員に届いてしまう。

「結婚指輪とか見たの?」と訊ねてくる知念さんの左手薬指にはシルバーのリングが嵌められていた。

 思えば、私は彼女の指先など全く気にかけたことがなかった。両親は結婚指輪などというものをしていなかったからだ。彼女に心の中で相当馬鹿にされていたのだろうなと思うと胸がチリチリした。

「いや、なんか、旦那さんってワードを聞いた気がして」

 気がする、なんていうのは完全に嘘だ。けれど彼女の生死も分からないこの状況で、余計な情報を出して社内を混乱させることのほうが罪なことのように思えた。

 ふーん、と、これまた世間話の空気感で私の言葉を流した知念さんはそのまま煙草を吸いに行ってしまった。私は感情を持て余したままデスクトップの整理にかかる。すると今日初めて自席の電話が鳴った。

 

 電話の主は、得意先のアキタストアからだった。

「お世話になってますー。アキタストアの秋田ですけども」

 つい先月、幡見さんから山内さんに担当が変わった、まさにその取引先である。電話越しにぺこぺこと頭を下げながら話を聞いた。

「おたくの山内さんて方、あの最近幡見さんから引き継いだ子ね、請求書ちょっと書き違えてるんじゃないかって思いまして」

「請求書ですか」

 確かにうちの会社では、請求書を営業が作成している。取引先や商品によって口座をいくつか分けているため、新米の私が入社した時点で勝手の分かる営業側に業務を引き取ってもらったのだった。

「ええ。ウェブでね、こう、振り込もうとしたんですけど、口座番号がありませんってなっちゃって」

「そうでしたか」

 申し訳ありません、と、またぺこぺこ頭を下げる。改めて作りなおしてお届けしますので、と言って電話を切ろうとしたところ、いま払っちゃいたいから教えてくださいよ、と食い下がられる。あまりパソコンに明るくなく、頑張ってウェブサイトにアクセスしたのだからこのまま振り込みたいのだという。私も全ての口座番号は把握しているので、どの口座に振り込むべきかはその誤った番号を聞けば推測できるだろうと思い、了承した。

 しかし事態はそれほど簡単なものではなかった。

 一桁ずつ読み上げてもらった口座番号は、会社の法人口座のどの番号にも掠っていなかった。宝くじなら全部大外れといったところだ。嫌な予感で少し体が震えている。少々お待ちいただいてもよろしいですか、と言って保留ボタンを押すと、浅い深呼吸をした。

 走って幡見さんのデスクまで行き、アキタストアから聞いた口座番号を確認する。幡見さんはその番号を聞き、紙発注のことを相談したときと同じように、むむ、という顔で天井を見上げた。そして私の方を向き直って、僕が知っている限り、そんな口座はない、確認するからアキタストアさんには年始にお伝えすると謝っておいて、と指示を出しすぐに立ち上がって社長席のほうへ歩いていった。

 

 そこから数時間のうちにこの騒ぎは急展開を迎えた。結論からいえば、山内さんがとある詐欺グループの一員だったのではないかというのがその着地点だった。警察に届け出たところ、口座番号が最近凍結措置が実施されたものと一致したのだ。凍結されていたせいで振り込めなかったらしい。その凍結された法人口座の名義人も詐欺の被害者のようで、結局まだ犯人は捕まっていないのだと聞かされた。さらに追い打ちをかけるように、山内さんの捜索願が出されていなかったことも分かった。両親もダミーだったのだ。もう一度同じ番号にかけると、呼び出し音が永遠に鳴るだけで受話器を取る者は誰もいなかった。

 請求書通りに振込がされているか、確認するのは私の仕事だった。けれどその確認は前任の頃から四半期に一回程度まとめて行うのが通例になっていたのだった。長い付き合いの取引先が金額をちょろまかすなんてことはあり得なかったからだ。最近は電子発注も増えたこともあり、余計に紙ベースの振込確認に対する意識は下がっていた。確かに急に紙発注が増えたのは先月下旬からだった。発注から振込まで半月以上かかるため、私が確認しないことを見越して攻めてきたのだろう。ファックスが急に増えたタイミングで確認すべきだった。

 担当の刑事は続ける。口座は凍結されてはいたけれど、ほとんど中身は空っぽになっていた、被害額はこれから調べるが今のところは全く分からない、と。山内さんはだいたい三十社弱の取引先に請求書を送っていた。このうちどれだけの取引先が騙されてこの口座へ振り込んでしまったのだろう。全く予想がつかない。この結末を分かっていながら、素知らぬ顔をしてファックスのことを指摘してきた彼女の顔を思い浮かべる。お腹の前で揃えていた手が震えていた。

 警察署を出たところで、このまま帰ってもいいよ、お疲れさま、と社長に言われた。確かにもう夜遅い時間になっていた。社長に頭を下げて逃げるように帰った。責任の一端は私にあると、責められているような気がしてならなかった。道中その重さはみるみる増していき、自分のせいで会社が潰れてしまうかもしれない、と思いつめるまでになっていた。その不安は自分の頭の中で、ほとんど確信に近い状態のまま脳内を占拠した。

 足元に広がる大きな穴が、実際に見えるような気がした。

 

 

「きゅうちゃんお帰り」

 居間には葵さんと香里さんがいた。この八日間、家には私とこの二人しかいない。

 あの日、私がふらふらしながら出社したあと、志津さんの体調が悪くなりそのまま入院することになってしまった。五人のなかで一番アクティブで何処へでも駆け出して行ってしまうような彼女が入院とは。それ以来家の中はがらんと寂しい。

 家の中が三人きりになってしまってからは、会社で起きたことを気軽に愚痴れるような、からっとした空気はなくなってしまっていた。しかも小さな会社の同僚に犯罪者がいて、その人に私はまんまと騙され、会社が危機に直面しているのだ。映さんがいたときの空気であっても言えなかったかもしれない。

 身を寄せ合うように三人で居間のソファに座る。

「映さん見つかりそう?」

 淀んだ空気に私の言葉が投げ込まれる。それは腐った果実が重力に負けたみたいに情けなく、ぼとっと落ちた。

「ううん全然。電話出ないし、LINEも既読つかないし」

 葵さんがうなだれたまま言う。三人が三人とも居心地悪そうに身じろぎした。けれど誰一人として、眠りに落ちるその直前まで居間から出ていこうとはしなかった。これ以上、何も変わらないでほしいと願っていた。

 

 

.

 

.

 

.

 

 

 足元に広がっていると思っていた穴に、私はもう落ちているのかもしれない。数年ぶりに人から殴られる感触を思い出しながら、ぼんやりとそう思う。映さんの婚約者であろう大男の後ろで、映さんが小さい悲鳴をあげているのが聞こえた。そう、彼女たちは、その配偶者の脅威を見せつけられると、ひいひいと絶えず怖がってみせるけれど、守ってくれやしないのだ。愛する娘を、家族同然の若者を、守ることなど考えたことすらないのだろう。彼女たちは彼女たち自身がいちばん可愛い。その次は彼女たちの男、あとはおまけのようなものなのだ。私はそういう紙の上に針であけたような小さな小さな視野で生きるひとたちが、そのまま生きていくために必要な生贄の人形だった、生まれたときからきっとそう決まっていたのだ。かみさまが決めた人生に抗おうなんて、たちの悪いことはしないほうがいいのかもしれない。そういう出鱈目で粗悪な神話を信じてしまいそうな私がいる。

 

「きゅうちゃん」

 映さんがか弱い声で言った。

 

.

 

 十二月三十一日、大晦日、私は会社の最寄り駅にいた。会社の休暇が始まってから、山内さんのLINEアカウントは無くなり、会社の携帯も電源すら切られ、彼女が二度と姿を現すことはないということがほぼ宣言されたような状態になった。「ユーザーがいません」と表示された会話履歴の画面がまだ信じられない。ただ家にいるだけで罪悪感が募った。彼女の詐欺行為にもっと早く気がつけたんじゃないかと、これからすべきことが数え切れないほど待ち構えているのだろうと、いてもたってもいられなくなった。何より自分のせいで会社がどうにかなってしまうかもしれないという恐怖が、私を会社へと駆り立てた。

 ターミナル駅から一駅離れたここは、住宅街とオフィスがモザイク状に混ざり合って共存しているような街が、駅を中心にして円を描くように広がっている。改札を出て会社のある南口へ出ようとしたとき、その真逆の方向へ歩いていくひとつの背中が視界に入った。

 映さんだった。

 

 映さんはうちを出ていったときと同じ、ファーのついたダウンコートを羽織り長身の男性と連れ立って歩いていた。それが婚約者であることはほぼ確実だった。私は一瞬ためらったあと、意を決して彼らに近づいていき、映さん、と呼びかけて彼女の二の腕を掴んだ。

 映さんは背後の声に気がつくと、驚くほど緩慢な動きでこちらを振り返った。まるで現実から十分に距離を取るように。そしてすうっ、と息を吸うと、それを飲み込んで、ああ、と小さな声を漏らした。私という存在に怯えていた。

「誰だお前」

 映さんの小さな声を搔き消すように隣の男が言った。

「知り合いか」

 映さんに訊ねるその声はほとんど脅しのようにどす黒い。

 そう、という、ほとんど消え入りそうな声を聞くや否や、その男は途端ににこりと笑んで、こんにちはと挨拶の言葉を口にした。社会人という面の皮を長年貼り付けてきたビジネスマン特有の、何重にもかさなった口元の皺が波打つように現れている。

「初めてお会いしましたね。映はあんまり知り合いや友達を紹介してくれないから」

 私はそれに答えず、映さんを返してくださいと言った。

「映さんを返してください。まだちゃんと送り出せてないんです、私たち」

 男の目の色が変わった。

「私は映さんと一緒に住んでいる者です。みんなまだ映さんを待ってるんです」

 私の言葉を聞くや否や、彼は不快そうに鼻で笑って私を見下した。

「お前もあのくだらない宗教の信者か」

 否定することもできたけれど、彼は本当に私が宗教信者だったのかを問いたいわけではないのだ。ただ人を辱めて有利な立場を取るためだけのからかいだ。だから私はそれに答えず、戻ってきてほしいんです、映さんが急にいなくなるから、みんな混乱しちゃって大変なんです、と続けた。

「映は映の意志で俺のところに来たんだよ。まるで俺がさらったみたいな言い方だけどさ、悲劇の主人公ぶってないで現実見ようよ」

 映さんは口を閉ざしたまま。男にも、私にも、怯えている。

「違います。もし映さんが自分の気持ちに従ってここにいたとしても、今まで一緒に暮らしてた私たちになんの挨拶もなしはおかしいんじゃないですか。全部リセットして、忘れた気になっても、忘れられた側は納得いきません」

「手紙は書いたよ」

 固い路面を見つめながら映さんはぽそりと言う。まるで小学生の言い訳みたいに。

「それが自分勝手だって言ってるの。一方的だって思わないの」

 そう言って彼女に一歩近づこうとした瞬間、男に鞄のハンドルを掴まれた。ぐっ、と握られたかと思うと、そのまま無言で歩きだした。鞄を犠牲にすることも選択肢としてはあったけれど、会社がひどい状態に成り果てている今、そんな無防備なことができるはずもなかった。どこまでも姑息で卑怯で小賢しい男だ、引かれるがまま大股で住宅街へと入っていく。私たちの後ろを映さんが早足でついてくる、これから何が起こるのか、彼女も大方予想がついているのだろう。彼女の表情にはその恐怖を経験したものだけが身につけるある種の諦観のようなものが浮かんでいた。身勝手な人間がその強い立場を利用して密室に連れ込んだあと、相手の身に起こるのは性的暴行か、そうじゃない暴行だ。

 

 

 数時間後、私は「そうじゃない暴行」を受けた末、マンションの一室にある納戸のような暗い部屋に閉じ込められていた。エアコンもストーブもない。シンプルに殴られるだけでよかった、映さんの前で脱がされたらさすがにまともな精神を保てる気がしなかった、と思った時点で私はもうまともではなかった。男は繰り返し繰り返し、私を罵倒しては「映とは二度と関わるな」と吐き捨てた。映は俺が守る、とも口走っていた。彼の脳内ではどんな物語が巻き起こっているのだろう、私は目や鼻を守るように顔を覆って身を縮めながら、人間の不思議について思いを巡らせた。彼は彼の正義で動いているのだろうか? きっと違う。彼は彼が私を殴ってもいい理由を必死にでっち上げていたのだ。映さんを守るために男は私を殴っている、そういうことにして、思い切り拳を振るうのだ。ひとしきり罵倒が済んだあと、彼は私のことなんか今すぐにでも忘れたいとでも言うようにそそくさと部屋を出ていった。じんじんと痛む関節と、おそらく大きな痣が出来上がっているであろう背中が落ち着くのを待ってドアノブを下ろそうとしてみたけれど、外側から鍵がかかっているようで全く動かない。マンションの一室に「内側から開かない」部屋があるという時点で彼はかなりの「玄人」だということが分かる。もう私の頭の中ではほとんど見捨てている映さんではあるけれども、やはり連れて帰るべきなのではないかと強く思った。

 

 しばらく何もないその部屋で、背中をかばいながら横になっていた。まるで高校時代までの自分に戻ったようだった。大きな男から意味不明な理由で殴られ、放置され、しばらくするとやはり意味不明な理由で解放される。その繰り返しだった。彼はまるで私を殴る正当な理由があるかのように大きな、大きな声で語っていたけれど、自分自身でも分かっていたのだろう、大きな声でも出さない限りその主張など通るはずもないことを。体の中がぽっかりと空いて、虚しさだけがぎゅうぎゅうに詰まっているような気分だった。私はあの場所からうまいこと逃れたと思っていたけれど、私の人生は結局誰かに殴られるように仕向けられているのだろうか? そう思わずにはいられないくらいあまりにも簡単に暴力に陥ってしまった。大きな穴に、落ちたのだ。マンションの外廊下から、どこかの家で流れているテレビの音がしている。今日は大晦日だ、どこもかしこも特番で賑やかだろうと思った。

 

 どのくらい時間が経ったのだろう。固い床ですら寝入りそうになるほど長い静寂のあと、急に扉が開いた。

「きゅうちゃん」

 映さんが私の鞄を持って部屋に入ってきた。私の前にぺたんと座り、

「ごめんねきゅうちゃん」と呟いた。

 私より憔悴しているその顔を見て私は思わず訊ねた。

「映さんも同じことされてるの」

 映さんは否定も肯定もせず、着ているクリーム色のニットを捲って脇腹を見せてきた。そこには黄色や紫色や青色をした、まるでキャンバスに絵の具を投げたみたいな大きな痣が広がっていた。そして、また、ごめんねと言った。

「ここに来るまではこんな人じゃなかったんよ」

 映さんはまだ彼のことを信じていた。彼の中で何かが起こったと思っているのだった。しかし変わったのは彼ではなく、彼と映さんの関係なのだ。彼の自己中心的で独善的な認識によって、映さんは「彼に殴られても構わない人」に変えさせられてしまった。私は上半身を起こして鞄を受け取る。

「みんな映さんのこと待ってるんだよ」

 細く開けられた扉から、淡く明かりが差し込んでいる。私は続けた。

「今なら間に合うよきっと。帰ってきてよ」

 映さんは閉じられた口をさらにぎゅっ、と固く結んだ。目を閉じて、ふるふると首を振った。

「どうしても?」

 頷いた。そして目を閉じたまま言った。

「愛してるの。それは本当なの。相手も私のことを愛してくれてるの。だから後がなくなって、退路が絶たれて、最後の最後に、もし死んじゃったとしても、もうそれでいいの。そうやって生きることが、私の運命だと思うから」

 運命、と言った彼女にいくらかの白々しさを覚えた。愛という言葉によって目隠しをされながらふらふらと踊るお遊戯のせいで私が痣だらけの血だらけになったことも、運命の前には致し方なしとでもいうのだろうか。彼女の目と言葉の端々に嘘はないことが殊更、この状況の救いようのなさを際立たせている。帰ってくるなら、もし彼女が私の言葉に反応して、帰ってくることになっていたのだったら、私は映さんのことを完全には諦めなかっただろう。けれど、彼女は自ら吊り橋に火を放つように、足元の薄氷を割るように、私たちを遠くに追いやった、しかも最低のやり方で。もしかしたら、彼女があの町を出ていくことになった教団の「空中分解」も、これとよく似た彼女の土壇場劇によるものだったのかもしれないと思った。繰り返している。そして、彼女はどこかで楽しんでいる。この悲劇に酔いしれている。

「私たちは」

 もう彼女を責める体力すら残されていなかった。淡々と言葉を放った。

「私たちは、もうあなたを助けないよ。映画やドラマの主人公みたいにパワフルな人間じゃないの、みんな。あなたの物語に落とし前をつけるんだったら一人でやって。私がここに連れ込まれるのを、殴られるのを、黙って見てないで。残される人たちの心の中に、中途半端に存在を残さないで。消えるならちゃんと消えてよ」

「ありがたいと思ってる。私を住まわせてくれたこと、一緒に暮らしてくれたこと。でも今日で終わり。私はあなたのことを忘れる。あなたが一から全てをやり直すなら、私も自分の人生からあなたのことを取り除く。そういうことだよ、あなたがしてること」

 映さんは家を出ていったときと同じように、ぽろぽろと涙を流していた。私が言っていることをひとつひとつ理解しているわけではないのだろう。責められている私、というシーンを演じているだけなのだ。これ以上ここにいても何もいいことはなさそうだった。私は無言で泣き腫らしている映さんを置いてマンションを出た。

​©︎ 2019 by APZ wani.