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 しんとした街、アスファルトで固められた道は私の足音をも吸い込んでしまう。月は空の上に晒されたり雲に隠されたりしながら静かにそこにあった。歩くたびに全身が痛んだ。私はただひたすら進んでいた、いつもよりもずっと覚束ない足取りで、確実に。時間は深夜二十三時をとうに回り、あと十五分ほどで新年を迎えるようだった。

 私用携帯にはLINEの通知と着信履歴がいくつも残されていた。葵さんと香里さんからのものだった。返事はせず、鞄へとしまい込んだ。私にはまだやらなければならないことがあった。痛みと眠気で狭まった視界に映っているのは目の前の道と真っ暗な空の色だけだった。無意識のうちに涙が頬を伝い滝のように流れていた。映さんに放った言葉が正しいのかどうか、私には分からなかった。そうするしかなかったのだと納得しようとする自分と、映さんもまた被害者であると責める自分がいた。それらは天秤にかけようもなく、頭の中でひたすらぶつかりあっていた。

 山内さんが私に投げかけた言葉を思い出していた。来年から決めてみようよ、まっさらなときに何か決めるのって楽しいよ。あと十五分で世の中は新しい年を迎える。私は考えてみた。来年は、何をしたい? 駅前を通り過ぎ、人混みの中を掻き分けて進んだ。年越しに沸く若者たちが私の形相を見てぎょっとしたように飛び退く。私は、私は、何がしたいのだろうか。嘘で塗り固められた山内さんの思い出や愚痴を受け止めていた私が、逃げて来た先でまた馬鹿みたいに殴られている私が、来年、何をするっていうのだろう。駅前に設置されているモニターが、今夜だけテレビの生放送を流している。画面の中では、アイドルグループが笑顔で踊っている。サイリウムを持った観客たちが色とりどりの光を揺らしている。来年、来年、私は唱えている。まるで夢みたいなことが起きたらいい。家族が、父と母がまともになって、暴力も罵詈雑言もなく、清潔で笑顔で、私のことを抱きしめてくれたらいい。死んだと思っていた姉が実はどこかで生きていて、他の兄や姉も逃げた土地から集まって、私より先に生まれた子どもたちが皆揃って私を迎えてくれたらいい。映さんの婚約者が映さんの元旦那さんのように急に死んで、また元どおりになればいい。ごめんねきゅうちゃん馬鹿だった、もう出ていかないよと笑ってくれたらいい。山内さんも何事もなかったように出勤してきて、偽の口座番号も詐欺グループも、私の妄想だったということになればいい。体調を崩して寝込んでいて、携帯も電池が切れただけなんだと言ってくれればいい。全部ただの夢だ。夢のまた夢だ。ほとんど嘘のような夢だ。

 私は何かを取り戻したい。ひとつでもいいから取り戻したい。けれどそれはもう二度と叶わない。分かっている。けれどそれ以外に思いつくことなどなかった。それでも立ち上がって生きていかなければいけないなんて、残酷すぎると思った。思いながらも、私は歩いている。それが紛れもなく、私が私である証拠なのだ。高校の卒業式の日、私は今と同じように一人きりでただ前だけを向いて、自らが進むべき方向を定めて歩みを進めていた。立ち止まることはなかった。夢を見ながら、その夢が敗れたことを知りながら、けれどただ進むことを諦めなかった。新年、あたらしい年には何がしたい? したいことなど何もない。ただ私が進むことを、生きていくことを、阻む何かが現れなければいい。鞄の中でまた携帯が光った、あと五分で次の年が始まる。

 人混みは再び途絶え、黙々とオフィス街を歩きながら、私は広い広い、あの町の駅舎を思い出していた。卒業する一ヶ月くらい前に建て替えが終わったぴかぴかの駅舎だった。白いホーム、ガラス張りの待合室、一つから三つに増えた自動販売機、がらんとしたそこで私は一人電車を待っていた。他のクラスメイトたちは皆卒業アルバムにそれぞれの別れの言葉を書き合うことに夢中で誰一人として校舎を出ていなかった。私は卒業アルバムを買うことすらできていなかった。足元を見る、くたくたに汚れたスニーカーがうつる、真新しいホームの白い床とのコントラストが目に痛い。やわらかな風が吹いて、電車がホームへと近づいてくる。ここではないどこかへ行ったきりになってしまえることがとてつもなく嬉しかった。

 ようやく、会社の事務所が入っているビルに着いた。入り口のガラス戸を押してみるとあっさりと開く。メンテナンスの為か停止しているエレベーターを突っ切って、外階段を見上げる。あのときぼんやりと見つめたあの足は、今パンプスを履いて、階段を上ろうとしていた。遠くへ来たなと思う、けれどこの体はあのときから何も変わっていないのだ。痛めつけられ、大切なものを失い、それでもどこかへ行こうとする渡り鳥のように、私はただ進むひとつの生き物として命を燃やしている。ヒトとして、まっとうに生きていけるのか、私には自信もないし、分からない。生きれば生きるほど複雑に迷宮入りしていく。けれど前へ、進む。歩いていく。穴に落ちても、そこから這い上がれなくても、もし這い上がれたとしても、また別の災難に遭っても。

 

 三階の事務所の玄関は、当然のように開いていなかった。社用携帯を出して社長に繋いだ。あと数分で私たちは新たな年を迎える。社長は数コールですぐに電話を取った。

「波多野さん?」

 社長は少し酔っぱらっているのか、少しふらふらした声でそう言った。居間のすぐ側にいるのか、ざわざわしたとテレビの音とそれを見ているのであろう人々の声がする。

「どうしたの、かけ間違い?」

「事務所を開けてください。鍵はどこにあるんですか」

「何何? どうしたの?」

「社長、私、やらなきゃいけないことがあるんです」

 扉に寄りかかる。ガラスの冷たさがコート越しに伝わった。私は繰り返し、事務所に入りたいんです、今すぐに、と言う。

「波多野さん? 大丈夫?」

「社長ごめんなさい。本当にごめんなさい。私がもっとちゃんとしていれば、山内さんにこんなに好き勝手させないで済んだはずなのに」

 言いながら、自分でも混乱していた。なぜ私は今ここにいるのか、自分自身、説明がつかなくなっていた。

「私もっと頑張ります。今できること、あるんです絶対。まずアキタストアさんに謝罪を入れないと。他のお客さんにも説明をしに回らないといけないですよね。資料作ります。だから、だから、ここにいさせてください」

「ちょっと、大丈夫? 酔ってる? 今どこにいるの」

「事務所の前にいます。鍵の場所を教えてください」

「鍵は全部私が家に持ち帰ってるよ」

「開けてください。ここを追い出されたら私、もう居場所がないんです。これからは請求書も私が作成します。幡見さんと知念さんの業務も引き取りますから。もちろん新しい方が入って来たらちゃんと確認を」

「落ち着いて。波多野さん。落ちついて」

 私は玄関扉にもたれたまま、ずるずると尻餅をついて息も絶え絶えに訴えていた。前を向く、前へ進む、立ち止まってはいけない、私の頭の中でそれだけが無限ループしていた。さもなければ死んでしまうから。来年も、再来年も、その次も、次も、次も、私は、進み続けなければならない。羽を休めている暇はない。それが私の人生の、ただひとつの矜持だった。ひとりぼっちだった私が自分の心の中に唯一見つけた、真実のようなもの。もはや涙も枯れ、頬の輪郭に沿ってわずかに跡を残すだけになった。十八の私をまた思い出す。あのとき私は紛れもなくどこかを目指していた。逃れるという負の力と、向かうという正の力が同時に作用していた。何も持っていなかった私は、けれど無敵だったのだ。今はどうだ。どこから逃げるべきかも、どこへ向かうべきかも、もはや何もわからなくなっていた。目の前が真っ暗になる。前へ、前へ、私の頭の中で同じ言葉だけが響き渡る。ねえ、前って、いったいどっちなの。あの頃の私に訊ねても、答えはない。うまく呼吸ができなくなる。痛みと眠気と酸欠で意識を失う数秒前、波多野さん、と焦ったように呼びかける社長の声の背後から、ハッピーニューイヤーと、大合唱のように揃った喜びの声がどっと沸いた音が、ほんの僅か、耳に届いて消えた。

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(おまけ:プロット)

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