「Yエレクトリックホールディングス?」

 真衣は、コーヒーゼリーと牛乳を攪拌したような茶色い液体をずずっ、と啜ってからそう言った。片眉を少し上げて、さらに「しらんな」と付け足した。

「結構有名なんだけどな……。」

 僕は器に入ったトムヤムクンのラーメンもどきにスプーンを入れながら、消え入りそうな声で答える。実際のところ、真衣の耳には届いてなかったんだろう。一部上場、入社難易度は指折り、新しい製品を出せば即日ニュースになる、そんなことは真衣にとってなんでもない。そして、この国にとってもなんでもないのだ。

 

 真衣がタイでリゾートキャバ嬢をやるらしいという話を聞いたのは、僕が卒業旅行のイタリアから帰ってくる途中、一切合切を入れたスーツケースがトランジット先のタイの空港で足止めをくらい、結局戻ってくるのは数ヶ月先になりそうだという絶望的なアナウンスを受けたその翌日のことだった。

 元々マジョリティの波には絶対乗らない彼女のことだから卒業したあとも新卒切符を無駄にしてフラフラやるのだろうと思ってはいたけど、海外でキャバクラ嬢をやるなんてさすがに予想していなかった。真衣と同じサークルの友人から「あいつなんか海外行くらしいよ。風俗?みたいな?」と聞いてから、本人に「いやいやキャバ嬢だから」と言われるまで、いや、言われてからも、やっぱりなかなか信じられなかった。

 真衣には曖昧で、かつ複雑で、離れがたい、一人の男がいたからだ。

 

 トムヤムクンラーメン、は、辛いというよりかなり酸っぱい。観光客向けに英語と中国語と日本語が併記されたメニューには「食べやすいです」と書いてあるから、やっぱり地元民が食すそれよりもずっとマイルドなのだろう。

 その一方、真衣は日本でも食べられそうな、僕のトムヤムクンラーメンより「おとなしい」顔をしたカオマンガイをそっとつついている。まだタイに染まりたくない、とか言っているのだけれど、じゃあなんでタイにしたんだと聞くとまあ適当に、と彼女らしいような答えが返ってきた。

 

「じゃあなんで悠は、えーっと、Yエレクトリックなんとか」

「Yエレクトリックホールディングス」

「そうそこ、そこにさあ、入りたいって思ったわけ」

 

 僕にはちゃんとYエレクトリックホールディングスに入りたい理由があった。けれど彼女の前ではなんとなくバツが悪いような気がして、「まあ、なんとなく?」とか、小学生みたいな気取り方をしてしまう。ほーらやっぱりそうじゃんか、あんたも私も変わらんよ、と、満足げにニカッと笑う彼女のことが、僕は、好きだ。

 彼女の出稼ぎ(?)先と、僕の大事な荷物の足止め先が同じ国だということが、僕には運命のように思えた。だから空港の担当者にすぐ電話をかけて、「取りに伺います。ええ。タイへ行けば直接受け取れるんですよね?」と、急ぎ足のハトみたいに矢継ぎ早に約束を取り付けたのだった。

 

 実を言うと真衣に連絡を取ったのはつい半日ほど前のことだった。成田空港へ向かう電車の中、いちかばちかでLINEを送った。僕は中学の頃から真衣と友達をやっているというのに、この十年近くずっと、部活の先輩に片思いをした中学一年生みたいな態度を取り続けている。

 おつかれー、と、意味のない言葉を送ってから返事が来るまで半日かかった。そう、今さっき、連絡が取れたのだった。ちょうど僕がスーツケースを受け取った空港から車で三十分もかからないところに真衣の「寮」はあった。これも運命だと思った僕はやっぱり中学生女子と変わらない。

 

「スーツケース、見つかったんでしょ」と真衣が唐突に話題を変えた。

「うんまあ」

 まあ、なんなのだ。僕は僕のこの歯切れの悪さが気に入らない。

「じゃあもうやることないわけ?」

「まあそうだね」

 ドロドロに伸びた麺をぎゅうっと吸い込んだ。真衣はコーヒーゼリーを飲み干す。

「じゃあさあ」

 

 じゃあさあ、うち来なよ。

 僕らが立ち上がったとき、真衣のカオマンガイは半分以上残っていた。

 

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 結論から言うと、僕らは健全に酒を飲み、健全に酔っ払い、健全に肩を組んで、なぜか真衣の勤務先となる予定のキャバクラへ繰り出した。タイの甘ったるいような、少し酸っぱいような、ぬめっとした空気から一変、キャバクラの店内はいきなり日本へワープしたかのように居心地のいい空気が充満していた。ベロベロに酔っ払っても見た目には出ない性質が功を奏し、僕らはかなり長居した。本来女性客は受け入れないものだろうけれども、丁度その日は少し客足が引いていたせいか、まあいいかという具合で真衣は許された。数日後には、彼女はここのキャストとして働いているだろうけれども、きっと彼女たちはそれを知らない。若い日本人カップルが勢いでここへ飛び込んだとでも思われているようだった。

 ベロベロに酔っ払った真衣がさらにシンハービールを煽り(彼女はビールしか飲まない)、その「向こう側」へ行ってしまってからはずっと彼女の土壇場だった。高校卒業直前頃からつい数日前まで関係があったセフレがいたこと、彼のことが好きで好きで気が狂いそうだったけれど彼は全く振り向いてくれないばかりか体だけはちゃっかり求めてきたこと、最初の頃はそれでも「好かれている」と浮かれまくっていたこと。妊娠したこと、中絶したこと。それでも彼に会うと口角が上がってしまうこと。そして傷つけられるたび、隣にいる彼に泣きついて、一晩中話を聞いてもらったこと。隣の彼とは僕のことだ。僕もこの際「向こう側」へ行って彼女に告白してしまいたかったけれど、何杯飲んでも水みたいにすっと喉を通っていって、すぐにもよおすだけだった。

 

 彼女がいよいよ閾値に達し眠りこけてしまってから、僕はキャバ嬢の「先輩」方にだけ、その重すぎて長すぎて気持ち悪いと言われても仕方がない思いの丈を長々と語った。先輩たちは、ただ静かに聞いていて、途中から、彼女たちも眠ってしまった。

 僕は明け方になって、店長にお会計を頼んで、それから先輩たちに多めのチップを払って、一人で店を出た。

 

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 酔いを覚ましたくて、歩いて空港へ向かおうと思った。少し歩いてから、けれどすぐに諦めてタクシーを拾った。ずっと飲んで、起きていたせいで頭がバグっていた。車窓から見える高層ビルと粗末な小屋のコントラストを見るともなしに見ながら、僕は盛り上がるだけ盛り上がって、結局そこで終わってんだよな、そこが最高潮なんだよな、マジでクソだなと自分を罵った。首の後ろが重かった。

 

 帰りのチケットは午前中ではあったけれど、まだアホみたいに時間が残っていた。空港の売店は少ししか空いていなくて、スタバの真似事みたいなスタンドだけが小気味のいいテーマソングみたいなものを流していた。僕はそこへ寄ってメニューを見て、分からなくて、写真を指差して注文した。きっと次に来る頃には「Yエレクトリックホールディングス」の駐在員として、あるいは海外営業部員として、ここに来るのだと誓いながら。

 注文したコーヒーゼリーと牛乳を攪拌したような茶色い液体は、昨日真衣が啜っていたものを全く同じデザインのものだった。流行ってんのかな、と思いながら吸ってみると、先週セブンで買ったそれと全く同じ味がした。確かにこれを飲んでいればタイに染まることはないだろう。

 

 そのとき、足に何かが強打した。

「バカじゃないの」

 真衣だった。

「スーツケース忘れてさあ、あんた何しに来たわけ」

 真衣だった。

「もーさー、私が起きてなかったら大惨事よ。感謝してよねマジで」

 真衣だった。

 僕はいまここで漏らすんじゃないかと思うくらい興奮した。タクシーの中で呟いた言葉が反響する。「僕は盛り上がるだけ盛り上がって、結局そこで終わってんだよな、そこが最高潮なんだよな、マジでクソだな」知らねえよ。俺はこれが好きで生きてんだ。

 

 真衣は、走って来たのかはあはあと息を切らしながら僕の腕を掴む。そして、「ほんとはね」と、始める。僕は緊張で前が見えない。唯一見えたのは、彼女の左腕に巻きついている、0時5分で止まったままの華奢な腕時計だけだった。

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コーヒーゼリー

(おまけ:プロット)

コーヒーゼリー.png

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