とても太ったハトが僕に向かってこう言った。「お前、地上と空は違う世界だって知ってるか。」僕は反射的に空を仰ぐ、ちょうど降り出した雨が頬や首筋にぱちぱちと当たった。「知らないよ。だってこの雨は空からそのまま落っこちてきたんだろ?」

 ハトは僕の足元でためらうように二、三歩足踏みをすると、おもむろに羽毛を膨らませ、まんまるになって目を閉じた。僕は傘をさしてハトの様子をうかがっていたけれど、いつまでたっても寒そうにじっとしているだけで結局もう喋ってはくれなかった。

 僕はハトと話すのをあきらめて駅に向かった。

 さっき空を見上げた時にはじけた水滴が、ちょうど涙のあとみたいにぴたりと流れていた。ハトはあんなところでまるくなっていたら濡れてしまうんじゃないだろうか。振り返ってみるとハトはまださっきと同じ場所でじっと何かに耐えているようだった。僕は駅へ向かう。

 駅のホームで電車を待つ間も、雨は一向に止まなかった。

 電車を待つ間、僕はなんとなく雨粒のひと粒ひと粒の軌跡を追いたくなって屋根の向こう側を凝視していたけれど、僕が標的にした雨粒を地上まで見送るほんの一瞬前、いつも雨粒の行方が途絶える。途絶えた後に残るのは、粒がちぎれた水たまりの反射光ばっかりだ。見ていると目が覚えたみたいで、目を閉じてもまぶたの裏でなにか小さな光がちらちらと好き勝手やっていた。

 生ぬるい車内で僕は窓の外を見つめている。

 電車はいくつものトンネルをくぐり、高架を渡った。そのたびレールと車両がへんな音を立てながら噛み合い、そのへんな関係のまま電車は進んでいった。でも見た目には何も問題はなさそうだった。

 たたんだ傘から雨粒の残骸がちぎれるように滴って、そしてまた残骸はもとの雨粒のようにもどってぽつぽつと規則正しく床を濡らしている。

 僕は雨にぬれた自分の足元に視線を移した。それと車両内の乾いた雨の足跡を見ている。

 雨の日はいつも体が重いような気がしている。

 電車を降りて改札を抜けた、雨はまだ止んでいなかった。

 仕方なくびしょぬれの傘をまた広げた。

 一面アスファルトで覆われた道は水を吸い込まずに持て余していて、水も水でどうしようとお互いに困憊しているようだった。中学校の理科で土や森林の大切さをこんこんと教えられたはずなのだけれど、僕がいま踏んでいる地上はいつまでたってもアスファルトの天下だ。

 視界のそこかしこで雨粒の残骸が水溜りにはねてちらちらちらちら光っている。どうでもいいけどここにはハトがいない。

 国道に差し掛かるとばかみたいに張り巡らされた陸橋をひとつひとつ丁寧に渡る。上に上がったって下に下がったって結局僕はどこかに足をのっけていて、それがハトの言う「地上」なのかもしれないなあとぼやぼやと思ってみたりした。そう考えているうちに、陸橋のいちばん上でハトにまた出くわした。僕は先に口を開く。

「お前、地上と空は違う世界だって知ってるか。」

 これまた太ったハトはもったいぶってしばらく黙っていたけど、

「ふん。」

とだけ言って見せつけるように羽を広げた。大きな羽だ。

 そうしてハトはハトらしくばさばさと羽ばたき、ふわりと飛び立ち、僕の目的地とは全然違う方向へ飛んで行ってしまった。彼の(彼女の?)ミミズみたいなピンク色の足ばっかりが僕の頭の後ろのほうで思い出された。ハトは足を地面なんかにつけていなくても生きていけるのだ。

 僕はしばらくハトの行ってしまった方向を無意味に眺めていたけれど、ふと思い立って、陸橋の向こう側を振り返った。小学生の悪ガキがするそれのように、僕は想像したとおりの方向へ勢いよく走りこむ。そして陸橋の手すりを蹴り傘を高々とあげ、おもいきり両足でジャンプする。体の前面に水滴がぱっとはりついて一瞬時が止まる。

 僕は永遠にどこかに体を預け続けるのだ、どこかを踏み続けるのだ、たぶん。

 

 前面に貼りついた水滴がそのままゆっくりゆっくり僕のからだを覆うように這い、それと同時に僕は視界いっぱいの風と空気を見ている。思わず傘の柄を力一杯、握りしめているのに僕はそれでもこのぞわぞわとした浮遊感を受け止めきれない。受け止めきれない。

 今まで聞いたことのない音が僕の側面で荒い粒子になって走り抜け、僕は目を閉じる。そして開ける。視界が遠い空を仰ぐように澄んだ青に変わってきて、傘を握る手の反対が淀みない判断で地上に伸ばされる。ああ空が近い、と何か閃いたような言葉が浮かんでから僕はその青がただのコンクリートだったことに気がつく。僕には羽がない。だけれどだからこそこの地上が恋しい。あの太ったハトが雨の中で何かに耐えるように、青い空を思った時のように、羽を広げて飛び立った時のように。

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僕はこの上なく地上にいる

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