ひとりで泣かないで

 その身ひとつであてもなく歩いていく後ろ姿を、誰かは強い人だと言い、誰かはかっこいいだとか大変そうだとか大人びてるとか好き勝手言うけれど、おまえの隣に寄り添って道筋を示してくれることは絶対にないよね。それはおまえ自身が一番よく分かっているから、いちいち怒ることはもうやめた。街のショーウィンドウに映るおまえの背中はどう見たってこころもとない小さな子どもなのに、おまえは自分を奮い立たせて、ひとりで歩いていく。

 ひとりで泣かないで

 負った傷もきみ自身だと言われるたび、おまえはどうしたらいいか分からなくなる。私だって、あんたたちのようにきれいな体ですこやかに育ちたかったに決まってる。それをどうして、何が悲しくて、傷を自分自身として引き受けなければならないの? おまえはひとりで泣いている。誰かの前で泣いたとて、その悲しみの深さ、重さ、計り知れなさを、理解してもらえると思っていないからだよ。おまえ自身もその果てのない穴底の色を知り得ない。

 ひとりで泣かないで

 おまえはひとりで生きて生きて、大きくなって、はじめて世界を知る。ああ、こんなに世界は不完全で、曖昧で、「こんなもの」なのかということを知る。人の一生は物語ではない。ドラマは虚構であり、脚本家はエンドロールのあとを書かない。ただそれなりに過ぎていく朝と昼と夜を繰り返し、おまえは歳をとっていく。穴底の色のことを考えることもなくなった。諦めてしまったんだね。こんなにままならない、つぎはぎでどうにか回っている世界に、あの色のことを訊ねたとて、きっと答えは返ってこないから。おまえは自分自身もまた、どこかの「誰か」であることを甘んじて受け入れる。

 ひとりで泣かないで

 大きな脱線事故だった。おまえと同じ車両に乗っていた人はおまえ以外の全員が死んだ。最初に到着した救急隊員の一人も巻き込まれた車のガソリン爆発によって死んだ。おまえだって無事ではなく、自分の足で歩くことができなくなった。そして、おまえにはひとつの名前がついたね。「奇跡の生き残り」と。おまえは連日メディアに追い回され、マイクを向けられ、シャッターを切られる。SNSはおまえの話で持ちきりだ。おまえが顔をあげると、必ず誰かと目があった。鬱陶しくて仕方がなかった。自分のことで精一杯なのに。一年経ち、二年経ち、また新しい悲劇が世間を賑わすと、おまえに向いていた好奇の目はすっかりどこかへ消え失せる。台風一過のような晴れの日、おまえはあの事故の遺族の家を回ることにした。

 ひとりで泣かないで

 テレビ局のカメラマンがひとりついてきた。遺族の会と打ち合わせをして、一ヶ月に一軒か二軒訪ねていった。拒否されたところを除けば二十二人分。丸々二年かかってすべての家を回った。最後の家は、当時高校生だった女の子の遺族だ。丁寧に手入れされた庭には、紫陽花が咲いていた。おまえは軽く会釈をして、ヘルパーに支えられながら家の中へ通される。白木のフローリング、大きくて柔らかいソファ、額縁に入った表彰状、彼女と、その弟と思しき子どものツーショット写真、ダイニングチェアは四脚、薄緑色のカーテン。遠いところからわざわざありがとうございます、そう言って両親は頭を下げた。カメラは私と両親を写している。

 ひとりで泣かないで

 もうそろそろ五年になるんですね。そう呟くと、母親の右目からはらりと涙の粒が落ちた。あの子が生きていれば次の春には社会人でした。また、はらり。そうだったんですね、と私は言うが、二の句を継げずにいる。あたたかい家のにおいがするから。ああ、私もこんな家に生まれたかったと胸をかきむしりたくなって、思わず握った右手を胸の前に押し付けた。亡くなってなお愛されるような子どもになりたかった。私は床に落とした視線を彼らのほうへと向ける。父親は黙って母親の背中をさする。

 彼らはまた語り出す、その日は女の子の体調が思わしくなく午後から登校することになっていたこと、外は暑いからとその日たまたま家にいた父親が駅まで車を出したこと、ちょうど来ていた電車に乗ろうと車からぴょんと降りて駆け出して行ってしまったこと、その後ろ姿をもっとちゃんと目に焼き付けておけばよかった、と。私は目を閉じて思い出そうとする。あの事故が起きてから一時間くらいは、まだ半分くらいの人が生きていた。あの中にこの子がいたはずだった。私は思い出そうとする。痛い、痛いと泣く声や、意味を持たないうめき声、荒い息遣いの中に、この子は。

 ひとりで泣かないで

 気がつけば二時間半も話し込んでいた。途中でお茶を飲み干してしまい、二度注いでもらった。最後に両親と握手をして、そのとき、母親が言い含めるようにして小さく呟いた。「ひとりで泣かないでね」。私は答えることができない。一緒にいたカメラマンは気がついている、私はこの二年、遺族の話をいくら丁寧に聞いていても、感情を露わにすることはなかった。私に謂れのない罪を見出して怒鳴りつけてくる人や、事実だけを淡々と話す人、楽しかった思い出を語って事故当日のことや亡くなったあとのことについては触れようとしない人、鉄道会社を相手取った長い長い裁判について訥々と説明する人、皆が皆、それぞれの形であの日のことを表現する。きっとカメラマンは、それを受けて私がどのように変化していくのか、私がどのような反応を返すのか、期待していただろうに、私は最後まで変わらなかった。目を閉じてゆっくりと聞くだけだ。

 ひとりで泣かないで

 帰宅し、介助を受けながら一通りの家事や食事、入浴を済ませたあと、ヘルパーは帰路に着く。玄関まで見送ると、いつもは少し冷たさを感じるほどに無愛想な彼女が、スニーカーの紐をきつく結びながらぽつりと言うのだ。

「あたしにくらいは気を遣わなくたっていいんですよ」

「あ、いえ、……はい」

「なんか木下さんってすごいたくさんのものひとりっきりで背負ってるから」

 ひとりで泣かないでください。

 ぱたんと閉まった扉の前で、おまえは逡巡する。ヘルパーはあの母親の言葉を聞いていたのだろうか。いや、ヘルパーはちょうどあのとき、車を準備しに行っていて私たちのそばにはいなかった。それならどうして。おまえは考える。私はそんなにひどい顔をしていたのだろうか。実際、胸の中はもう一分の隙もなくいっぱいになっていた。それでもおまえは泣かない。他人に涙を見せない。それは強がりなのだろうか? いや、違う、おまえを癒すことができるのがおまえしかいないと分かっているから、こうなってしまった。その現実に涙が滲む。ほら、ひとりきりならいくらでも泣くことができる。玄関の橙色の光のしたでおまえはひとり泣く。

 どうして、どうして私ばかり。虐められながら育って、愛されなくて、それでもひねくれずに生きてきて、やっと平穏な、やっと、安心できる人生を手に入れたと思ったのに。あの時どうして私だけ生き残ってしまった? 私だって死ねるもんなら死にたかった。殺してくれよ。なあ。こんな不便な体だけ置いていきやがって。なんにも知らないその辺の人間たちはあることないこと言い立てて私にゴミみたいな言葉投げつけて、ああ、じゃああんたが代わりに私の人生やってみるか? どれだけ苦しいか感じてみろよ。どれだけ理解されないか、どれだけ孤独か、どれだけ……。

 

 おまえはひとりで泣く。

 興奮と疲労でぐちゃぐちゃになった頭の中に、ソファに座った私がいる。おまえを見つめている。感情は読み取れない。おまえは顔を上げて、その能面のような顔を見つめ返す。私は口を開く。

 おまえはいつもそうだな、いつも自分のことばかり。自分の怒りや悲しみに溺れて、その向こうにある誰かの怒りや悲しみに触れることができない。立ち上がって、扉を開いて、誰かの手を取るべきだ。おまえはしとしと泣いている。止まない雨のように。その悲しみが本物であることは、私が一番よく知っている。それでもおまえが、今日のおまえのままでいたくないのなら。明日の光を望むのなら。おまえにはやらなければならないことがあるんじゃないのか?

 これまで強く生きてきたその力は何のためにある?

 

 

 その年の年末、特集番組が放送された。私はヘルパーの隣に座り、例のカメラマンから教えてもらっていた時刻に合わせてテレビのチャンネルを変える。冒頭、私があの日意を決して送ったメールの文面が流れる。

 

“ずっと言わずにいようと思っていました。でも、私が言わずにいたら、きっとあの事故の記憶は不完全な形になってしまうから、話そうと思います。聞いていただけますか?”

 

 私はあの日、涙で頬を湿らせたまま、二年間同行し続けていたカメラマンにメールを書いた。自分の人生から、あの事故のことから、なにもかも話して、それから遺族や、亡くなってしまった人たちのことについての思いを語りたい、一緒に遺族の家を回ったあなたに聞いてほしい、と。カメラマンは快諾した。生き残ったあなたにこそ話せることがあるからと。

 取材の日程が決まると、ヘルパーの運転する車で渋谷の放送センターまで向かった。いつもの無愛想なヘルパーは、その日少しだけお喋りになった。彼女のかつての婚約者が、あの事故で最初に駆けつけた救急隊員だったということを私は初めて知る。その事実に絶句するとともに、それまで彼女の口を閉ざさせてしまっていた自身の態度を恥じた。ごめんなさい、と呟くと、ヘルパーは、やだやだやだ、やめてくださいそんなのー、と口を開けて笑った。

 

 駐車場を降りたところで、カメラが入った。よく覚えている。記憶を辿るように、画面を見つめた。

 受付を過ぎ、エレベータで三階へ。エレベータホール前で待っていたカメラマンが私たちを見つけて手を振る。一人の車輪の回る音と二人の足音は廊下の奥の会議室へと向かう。今日もいい天気ですね。ちょっとクーラーの効きが悪くて部屋の中暑いかもしれないんですけど、すみません、と言いながら、彼は鍵を開け、ドアノブを捻る。扉が開く。ヘルパーに車椅子を押され、私の後ろ姿は部屋の中へと消える。

「よろしくお願いします」

 番組のタイトルが画面中央に浮かび上がった。

​​ ひとりで泣かないで

20210801 m.wani