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 東大以外はない、東大以外はない、東大以外はない、東大以外はない。幻聴が耳にもわもわと残り続ける。区の条例を平気で破って深夜まで煌々と明かりを灯し続けるビルの一室にある自習室を出ると、昨晩も父親に言われた言葉、というより心の叫び、のようなものが再び耳元でざわざわと鳴り始めた。僕は、はーあ、とわざとらしく声を出してため息をついて地下鉄に続くホームへと降りながら、今日も一日使い込んだ脳みそに血を巡らせるように軽く頭を振った。

 高校三年生は、僕の通っている学校にとって「最終調整の年」だ。受験勉強を本格化させる年でも、ましてや志望校を決める年でもない。一部の、勉強以外の何かに心をぼだされてしまっている奴らを除けば皆もう、オリンピック前のアスリートのように、慌てず騒がず、いつものように過ごしながら、ただその日が来るのを淡々と待っている。

 僕もその一人だ。

 頭の中で、僕はバッターボックスに立つ。心をしんと落ち着けて、軟式の軽いバットを軽く振りながら持ち上げる。実際には、高校に上がってから一度も野球なんてしていないけど、何かに集中しなければならないとき、脳裏に浮かぶのはバッターボックスに立つイメージだ。視野を広くもちながら、でもその矛先は常にピッチャーの手元を捉え続けろ。僕は想像する。ボールは正面からくる。ひねりのないストレート。僕は想像する。打てる確信はあった。でも、どこに打つのが正解なんだ?

 本音を言えば、僕は自分の志望校、ということになっている東大に入学することに、強い抵抗感がある。

 小学校、中学校と受験をするたびに、その先に続く華々しい「ゴール」として設定されているのはいつも日本の最高学府、東京大学だった。僕以外の生徒だって皆そうだろう。努力しろ、集中しろ、ひとつでも多く覚えろ、答えろ、脳がねじ切れるまで考えろ、何のために? 東大に入って人生をよりよいものにするために。その圧力のようなものはこの学校に入ってからさらに強くなった。この中高一貫校に入学した一年目、先生は窓の外を指差してこう言った。「ここから東大が見える」。僕は胸の中に激しい高揚感と吐きそうなほどの嫌悪感が交じり合うのを感じていた。

 「勉強」はとても好きだ。すっきりと体系立てられた各分野ごとのステップを、一段一段、地道にコツコツと登っていく道中そのものが僕は好きだった。天才型のクラスメイトが曲芸みたいな鮮やかさで証明問題を解いたりするのを羨ましく思わないわけではなかったけれど、僕は僕のやり方を愛しているし、現にそれですでに東大理三の合格圏内に入っている。学内試験の順位を担任の口から聞かされた時、僕は誇張ではなく、自分の生き方を公に肯定されたような気がしたのだった。

 駅の改札を目指しながら思う。でも、僕はこのまま東大に受かってしまい、入学してしまうことに、いいようのない違和感を抱いている。僕は勉強が好きだ。学問もきっと好きだろう。いまさら芸術や他の道にふらりと逸れたいわけじゃない。他の大学ならいいのか、たとえば京大ならOK? 阪大なら? 東北大なら? そういうことでもないことは、僕が一番分かっている。分かっていないのは僕の両親だ。

 二ヶ月前の台風の晩、その答えの出ない不確かな形の悩みをぽろっと父親にこぼしたら、彼は突如烈火のごとく怒り出した。東大以外はない。東大以外はない。僕の父親とは思えないほどの少ない語彙から出てくる稚拙な言葉を繰り返しながら、僕を暴力的に黙らせた。僕が望んでいたのはもっと建設的で冷静な対話だった。はなから僕を反抗的な息子と断定して飛びかかってくる獰猛な僕の父親は、僕がその態度に心底がっかりしたことにも気がついていないようで、あの日から今日まで約二ヶ月ものあいだ、じりじりと僕を追い詰めるような態度や言葉をずっと改めない。母親も父親の激怒スイッチを押さないように、まるで他人の家に上がり込んだ泥棒みたいに体を細くして気配を消している。彼らの庇護下にあることが最早馬鹿馬鹿しく思えた。

「おにーさん」

 鬱々としながら改札を抜けてホームを歩いていると、ふいに後ろから若い女性の声がした。聞いたことのない、あまったるくて鼻にかかった声。僕は自分が呼び止められているとは思わずに、一度その声を無視した。するともう一度、

「ちょーっと、おにーさん」

 上腕のあたりに小さな手がつかまった。僕はびくりと振り返る。

「僕ですか」

 振り返った先には、全く知らない小柄で細身の女性が立っていた。彼女は、そーだよいまホームにうちらしかいないじゃん、と非難がましく言った。終電が近い時間帯、都会でもないここのホームには確かに僕とこの女性しかいない。僕が立ち尽くしていると、女性はさらにたたみかける。

「リュック全開きしてるけど、いいの?」

 え、と小さく悲鳴をあげてリュックを下ろすと、確かにジッパーがすべて開いて中身が丸ごと外気にさらされていた。使い古した単語帳、もう三年以上使ってるペンケース、付箋の付きまくったノート、…東大の赤本。

「お、赤本じゃん! わたし知ってるよそれ」

 女性は僕のリュックの中身をしげしげと眺めたあと、大発見をしたかのような声で東大の赤本を指差した。「東大ってすごいとこでしょ? お兄さんそこの人なの?」

「え?」

 僕は中身がすべて無事なことを確認しながら、彼女の頓珍漢な質問に疑問を返す。さっきまで父親の剣幕を思い浮かべては実態のないその鬼のような顔面にあれこれと言葉を投げつけていたのに、その逞しい想像は彼女のどこかコミカルな口調に蹴飛ばされてどこか遠くへ飛んでいってしまったみたいだ。

「え、東大って、すごいとこだよね?」

「赤本って、大学入試の過去問ですよ」

「入試…」

 女性は少し首をひねって眉根を寄せ、考え込むように黙り込むと、ああ、受験生! と笑顔になる。

「じゃあ高校生なんだ」

 まあ、そうですけど…。返事をしながら電光掲示板をちらと見る。まだ五分くらい待たなきゃならないらしい。女性のやたら快活な声が脳にわんわんと響いて少し気分が悪かった。

「まだ電車こないね」

 僕の見上げた先を追うように女性も電光掲示板に目をやって、そう呟いた。そして、暇だしちょっとお喋りしようよ、とジッパーの閉じられたリュックをぽんと叩きながら言った。距離の詰め方が異常にハイペースな彼女に乗せられそうになりながら、僕はその軽口に重石を乗せるように慎重に答える。

「あの、ちょっと、声のトーンを、落としていただけますか」

 女性は、え、と目を丸くして一瞬静止した後、ちょっと俯いて眉間に人差し指を当て、ぐりぐりぐり、と押し込んだ。僕は改めて隣の女性をまじまじと見る。ほんのり茶色に染められた長い巻き髪を後ろでまとめ、切りそろえられた薄い前髪もくるりとカールがかかっている。薄いピンク色をした柔らかい素材のブラウスのボタンはふたつあいていて、大きな花柄の白いミニスカートと組み合わされたそれはまるで今から友達と遊びに行く女子大生のように見えた。なんでこんな時間にこんなところにいるんだろう。そう思いつつ黙っていると、彼女はぱっと目を開け、僕をまっすぐに見つめながら、わかった、と静かな声で言った。

 今のなんですか、と問うた僕に彼女は読んでないの、ファブルだよ、とだけ答える。それから一瞬間をおいて、わたしは萠(めぐむ)っていうんだけど、お兄さんは? と尋ねた。

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