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 なにかを手に入れたかったらなにかを手放すといいよ、空いた手であたらしいなにかを掴むことができるから。みたいなことを、昔お父さんが言っていたのを覚えている。確かにあれもこれも全部欲しいって思ってても手は二つしかないし、冷蔵庫もクローゼットも原チャの荷台も大きさは最初から決まってる。だからわたしが髙藤さんと別れたのも、あたらしい誰かと仲良くなるための通過点なんだと思い込むことにした。ていうか、多分そのあたらしい席はもうすでに埋まってるかもしれなくて、なんだか絡んだことないタイプの人だったけどそれが逆に面白そうだなと思って、だからまた会えたらいいなって。珍しく0時からのシフトだった一昨日、たまたま出会った理樹(りき)という名前らしいその男子はどうやらわたしより一歳年上の高校三年生みたいだったけど、色々説明がめんどくさかったからわたしは高卒のフリーターという設定にしておいた。十七歳がガールズバーで働いてるって知ったらああいう賢そうな人はすぐに警察とか呼びそうで怖いから。でもわたしが生きてる世界とは全然違う場所にいるからこそ変にごまかさなくてもいいところがあったりもして、つまり、えーっと、わたしは、誰にも言えなかったことを理樹くんになら話せるかなと勝手に期待している。

 十九時、お気に入りのグリッターが散りばめられた十センチヒールのオープントゥパンプスを履いて家を出る。今日は寝覚めがいい。まだほんの少し明るい外の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、上機嫌に歩き出す。

 もともと髙藤さんに誘われて働いていたバーよりもガールズバーのほうが正直、居心地はいい。立ちっぱなしなのがしんどいのはどっちも変わんないけど、わたしと似たような、話の合う女の子たちと肩ならべて、若いサラリーマンとなんでもないような話すれば一日はすぐに終わってく。髙藤さんが経営していたところはわたし以外に女の子はいなかったし、お客さんもみんな静かでなに考えてんのかよくわかんないところがあった。それが嫌なわけじゃなかった。でも、髙藤さんに誘われなかったら永遠に縁のないところだったんだろうなって、そんな感じだ。

 

「もえちゃん」

 今日は初めてのお客さんばっかりでちょっと肩すかし。話をゼロから積みあげていくのは一日二件くらいがちょうどいい、誰か一人でもいいから、わたしに会いたくて、わたしと話したくてここに来るお客さんいないかな。わたしの「手助け」がなくても、カウンターについたとたん「この前のつづき」を話しだしてくれるような。そんなことを考えながらぼんやりと相槌をうっていたら、バックヤードから出てきた店長がわたしの源氏名を呼んだ。

「話途中にごめん。ちょっと」

 ちょっといいかな、と言いながらお客さんにもちいさく頭を下げてまたバックヤードに引っ込んだ。わたしも、ごめんなさい、少し空けますね、すぐ戻って来るので次のドリンク考えててください、と渋い顔をしながら笑うという高等テクを使いながらひょいひょいと後ずさってバックヤードへ向かった。

 後ろ手で扉を閉めると、表と違ってへんに静かですかすかしているバックヤードはどこでもドアでワープしてきたみたいに別世界だなと感じる。目の前にいる、難しい顔をした店長はまだ真新しいぴかぴかの白い机に両手を投げ出すように置いたまま、開口一番、ごめん今日もラストまで頑張ってほしい、と声を絞り出すように言った。

「えりちゃんが来れなくなった」

「またあ?」

 わたしは呆れた声で店長とえりちゃんに文句をたれる。えりちゃんはこの店でいちばんドタキャンが多いキャストだ。次は多分わたし。

「他の子にも頼んでみたんだけどみんな旅行とかで出払っちゃってるみたいで」

 今週二度目でほんとごめん! と店長は手を合わせてわたしにぺこぺこ頭を下げた。まだ三十と少しのはずなのにちらちらと白髪が見える。

「今までの遅刻欠勤ぜんぶチャラにするから」

 わたしはうーん、と小さく唸りながら天井を仰ぐ。なんだか頼まれごとをしてるのに責められてるような気分だ。特に用事もないから、まあいいよ、とため息混じりに答えると、店長はありがとねえ~、と語尾をまるめながら立ち上がり、ティファールに水を入れだす。

「もえちゃんも夢のために頑張んなきゃだしね」

「はあ」

「離婚したお父さんに会いたいだなんてさ、そんなこと言われちゃアンダーの子でも採用せざるを得ないよ」

 アンダーとは十八歳以下、つまり高校生以下の子どものことをいうらしい。わたしはまだ、この世界にこそこそと潜り込んでいるだけのお子様だ。

「お茶いれようか。声ちょっと掠れてるよ」

 歌うように言いながら、店長は紙コップを机の上に置き、一番端のロッカーを開けてティーパックを取り出そうとする。わたしは言う。

「しょっぱいのがいい。梅こぶ茶あったでしょ」

 店長は振り返り、えええ? とおどけたように目を丸くした。そして、なんかそういうとこ、憎めないよね、と言いながら大げさに笑った。

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