4 / 9
.
夏休みが終わった、と思った矢先に、今年十八番目の台風が首都圏を直撃した。今朝、なんだか空気が重くてじめじめしてるなあ、と思いながら傘を持って家を出たけれど、それから数時間も経たないうちに空模様は急転直下、まるで小さい頃に行ったディズニーランドのストームライダーみたいな景色になった。予報よりもずっと早い台風の上陸に、クラスもいつもと違って落ち着きなく皆そわそわと互いの顔を覗きあっていた。昼休憩に入り、多崎と弁当を広げながらやはり話題は台風のことで持ちきりになる。
「早く帰りてえわ」
そうぼやきながら、多崎は教室の端にあるオンボロの電子レンジで温めた牛丼の具を、タッパーに雑に押し込まれた米の上にざあっとあけた。こいつの昼飯は中学の時からずっと変わらない。タッパーに入った米と何らかの丼の具。
「帰るったってこれ、電車止まっててもおかしくないよな」
「あー、確かに」
「お前最寄どこだっけ」
「南北線の駒込よりもっと向こう」
なんにせよ爆裂に遠い。僕だって似たようなもんだ。自分の弁当箱を開けて卵焼きを頬張る。
「まあ俺は地下鉄だからよっぽどのことがなけりゃ帰れるけど。お前田都だろ、もう止まってんじゃね?」
嫌味を垂れてくる多崎にしかし言い返すことはできない。田園都市線は普通の雨が降っただけでもちょぼちょぼと遅延をかます劣等生なのは否定しようのない事実だ。最悪の場合は母親に頼んで車で迎えにきてもらうしかないけれど、二ヶ月前からずっと冷え切っている家族関係を考えると、かなり気乗りがしなかった。はあああ、と大きめのため息が出たその矢先、校内放送が流れ、僕らの予想通り今日の授業はこれにて終了と相成るとの旨がお知らせされた。
渋谷から半蔵門線に乗ると言う多崎と別れて池尻大橋駅に着くと、電車は奇跡的に運行していたものの、びっくりするくらい遅延していて、もはや時刻表は役に立たなくなっていた。改札脇のホワイトボードには大幅遅延のお詫びが貼られている。その前に立つ小柄な女性に僕は見覚えがあった。
「あの」
萠さんは、ホワイトボードに貼られているお詫びの張り紙をスマホで写真に撮っていた。黒いレースのノースリーブブラウスにカーキのショートパンツという格好は、大雨が降っている今日の天気では少し心もとなく思えた。
写真を撮り終えて満足げにひとつ頷いた萠さんは、それからやっと僕の声に気がついたとでもいうようにこちらを振り返った。そして、
「わあ!」
と言った。くるんと上がった睫毛は見開かれた二つの目の大きさを倍くらいに拡張させている。
「なんでなんで? 学校は?」
僕は閉じた傘をくるくると折りたたみながら答える。台風なんだからなくなりましたよ。
「萠さんも帰るんじゃないんですか」
「そっか。それもそうだね」
たたみ終わった傘をぎゅっと絞るようにひねると、先から水滴がぼたぼたと落ちた。ふと目線をやると、萠さんのビニール傘は彼女のぴかぴかした身なりとはあまり釣り合わない汚れ方をしていることに気がつく。まるでうちの学校の廊下に放置されてる持ち主不明の埃にまみれたがらくたみたいだ。ずっと軒先で放置されていたものでも拾ったのだろうか。
「もう疲れちゃったよへとへと。渋谷は入場規制しててさあ、そもそもホームに入れてくんないの」
そう言いながら小さなキルティングのリュックにスマホを入れて歩き出す。僕もそのあとを追うように改札を通り抜けた。
「もう入場規制なんてかかってるんですか」
「うん。駅員さんがずーっと大声で言ってたよ。まだしばらくホームには入れないとかなんとか」
僕は多崎の現在を案じる。
「あーもー今日はほんとについてない。聞いてよ」
階段を下りながら、萠さんは手を振り振り、話しだす。
「昨日の夜から今までずっと寝てないの。常連さんが来てくれたのは良かったんだけど途中で寝ちゃってぜーんぜん起きてくれなくて。揺すってもダメだし音楽大音量でかけてもダメだしで、最終手段で店長とせーので頭から水かけたらやっと起きたの」
萠さんは夜のお店で働いていると言っていた。キャバクラか何かだろうと思ってはいたけれど、仮にもお客さんである人に水をかけて起こすとはなかなかアグレッシブな店だ。
「ちょっと怒ってたけど謝ったげてもうお昼ですよって言ったらあわててお会計して出てったよ。むしろわたしたちが謝って欲しいんですけどって感じ。それでやっと帰れるって思ったらこれでしょ、もう最悪すぎるって」
ホーム階には、朝のラッシュと同じくらいの人だかりができていた。丁度電車がやってきて扉が開いたけれど、既にすし詰め状態となっているそこに乗り込む余地はない。その景色を目の当たりにして乗車を諦めたのだろうか、僕らの目の前にあるホームの座席で電車を待っていたスーツ姿の男性がひとり、立ち上がった。彼と入れ替わるように、さっさとその席をゲットした萠さんは座った途端にパンプスのストラップに手をかけ、ぱちんぱちんと両足分外してしまった。
「傘持って」
ぐいと差し出されたボロいビニール傘を有無を言わさず受け取らされると、萠さんは背負っていた小さなリュックから折りたたまれたスリッパのような、上履きのような、母親が学校に来るときに見かけるあの謎の履物によく似た靴を取り出した。
「まさか履き替えるんですか? ここで?」
彼女は畳まれたそれをすいっすいっと開くと迷わず足のほうへもっていく。俯きながら、無理無理無理足疲れたもん、じゃなきゃもう歩けない。とぶつぶつ言ってその柔らかそうな靴を足にはめていく。彼女の足元でお役御免となった主張の激しい派手なパンプスは、片方ころんと横向きに転がされている。駅員がまもなく列車が到着します、とアナウンスする声が聞こえる。
「はーよかった。サイズいい感じ」
「……自分で買ったんじゃないんですか?」
萠さんは僕の方をちらっと見てにやりとする。
「えりちゃんのぱくってきちゃった」
「お店の人ですか」
「そう。だって先月何回もドタキャンして代わりに働かされたんだよ。まあわたしも結構遅刻とかするけど」
そろそろ気まずいし辞めちゃうんじゃないかな、と首をかしげて笑う。まあこれはお別れの挨拶がわりに、もらっとこうかなと。重たい音を立てて止まった電車はまたすし詰めだ。
「しばらくは乗れそうにないですね」
これじゃあ待ってる間に運休してしまいそうだ。諦めて母親に連絡しようか、とポケットのスマホに手をのばしかけたとき、座ったままの萠さんがこちらを見上げてまたにやりとした。
「じゃあ歩こっか」
僕は眉根を寄せて反射的に口を開く。正気ですか?
「あなたがどこまで歩くか知らないですけど、僕の家の最寄りはあざみ野なんですよ、無理言わないでください」
僕の真面目な顔が面白かったのか、萠さんは心底可笑しそうにわははは、と手を叩きながら笑った。そして、
「わたしの方がもーっと遠いって! だって理樹くんと会ったの藤が丘じゃん」
と言った。確かに僕が萠さんと初めて会ったのは、僕が自習室を契約している予備校のある藤が丘だ。
「どうせここで待ってたって一生わたしらの順番はこないよ。それよりいくつか歩いて二子玉くらいまで行けば乗れるんじゃないのってはなし」
言い終わらないうちに萠さんはパンプスを手にがばっと立ち上がり、僕の腕を掴んで歩き出す。妙なテンポでぐいぐいと振り回されることに、僕はいくらか快感を覚え始めていた。
©︎ 2020 by APZ wani.