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 漫画を読み直してみたら、『ザ・ファブル』の佐藤が自分の「モード」を切り替えるためにやっていたあれはわたしがこの前理樹くんにやってみせたのとは微妙に違ってて、理樹くんに嘘を教えちゃったなと罪悪感が湧いたので正しいほうをもう一度やってみせた。ちょっと顔を上げつつ眉間に顔のパーツを寄せて、人差し指でとんとん、だ。あんまり他人に見せたい顔じゃなかったけどまあ理樹くんならいっか。だっていまのわたしは普段のわたしとは別の「モード」なわけだから。理樹くんは困ってからほんのちょびっとだけ笑った。

 横殴りの雨がすさまじすぎて傘が役に立たなくなっちゃったから、駅を出てすぐファミマでレインコートを買った。五百円。高いんだか安いんだかわたしにはわからない。着てみると体のまわりに湿気の大群がもわもわもわっ、と押し寄せてきて永遠にまとわりつく感じが最高に気持ち悪い。時々思いっきり吹き付けてくる風が逆に爽快だった。もっと吹いて欲しい。

「ひー」

 僕はウインドブレーカー持ってるから、とかいってレインコートを買わずにシャカシャカのパーカーを羽織った理樹くんは、結構意地っ張りみたいで、この風の中まだ傘をさしつづけてる。ときどき悲鳴をあげながら風の吹きつけてくるほうに傘をぐいっと傾けて、ババババババ、と音を立てながら懸命に台風と戦っている。

 わたしはそんな理樹くんを横目に見ながらえりちゃんの折りたたみパンプスで足取り軽く歩く。デニム素材のそれは明らかに雨には向いてなくて、エナメルとかだったら良かったのになあとか自分勝手なことを考えたりした。

「理樹くん東大行ったら台風に負けない電車つくってよ」

 見えない何かと戦いながらのしのしとアスファルトを踏みしめるように進む理樹くんにそう呼びかけてみると、こちらに顔を向けてぽそぽそと口を動かした。聞こえないんだけど。

「え?」

 少し近寄ってあげるともう一度口を開く。

「電車の問題じゃない」

「どゆこと?」

「そもそも台風が来るぞって分かってるのにノコノコ通勤通学してるこの社会の常識を変えたほうが話が早いと思います」

「電車が強くなるのはナシ?」

「ナシです」

「地震に強い家はアリなのに?」

「家がなくなっちゃったら元も子もないじゃないですか」

 そっか。

 わたしたちはしばらく無言で歩く。車がせかせかとわたしたちの横を通り過ぎていく。

 

 そうして数分黙々と歩いていたら、ふいにリュックの中のiPhoneの通知が鳴った。どっちかなーと思いながら開いてみればやっぱり店長だった。ちぇ、と心の中で呟いたつもりが口に出る。自分のこういうところが意外と嫌いになれない。画面がみるみるうちに水滴でにじんでいくので、返事はせずにショーパンの浅いポケットに突っ込んだ。すると、

「あのー! 萠さーん」

 傘をバババババ、とさせたままわたしの後ろのほうで理樹くんがいきなり叫んだ。わたしは目の前にある傘の先っぽを右手でつかんで上に跳ねあげる。途端にガードを失った理樹くん本体にざざざ、と水滴や落ち葉が吹き付けた。

「何するんですか!」

 理樹くんはびっくりして目を閉じながらもう一度叫ぶ。

「レインコート買えば良かったのに」

「でも顔が濡れるじゃないですか。コンタクトがずれて何も見えなくなるんですよ」

 理樹くんは立ち止まって渋々傘を閉じ、なぜか姿勢を低くしたまま右手を雨避けのようにおでこにかざしながら何回か目をぱちぱちとした。

「よかった。今のは大丈夫でした」

 そう独り言みたいにちいさく呟いてから、わたしのほうを眩しそうに見上げる。

「僕じつは、東大、行きたくないんです」

「え?」

「行きたくないんですよ。なんか気持ち悪くって」

 唐突な告白にわたしはなんと返事をすればいいかわからなくなる。そういう人もいるんだ。

「前、駅で会ったときはまあ、初対面でしたし、赤本もリュックに入ってて、それで行きたくないとかキモいなと思って言わなかったんですけど、実はそうなんです」

「……そうなんだ」

 理樹くんは右手をおでこにかざしたまま、静かに歩き始めた。わたしもその隣につく。

「他の人には言ってません。友達とか、クラスメイトとか、先生には。学校で実力テストみたいなのがあって、それの順位でだいたいの合格率とか測れるんですけど、僕は東大の理科三類っていう、まあ、最難関のところも堅いだろうって言われてて」

「かたい?」

「合格するだろうってことです」

「あー、みんなから期待されてるんだ」

「……んー、ていうより、東大に入るのが当たり前なんですよ。この学校に入ったからには、みんな東大目指してるんだろ? っていう、暗黙の了解があって。それがだんだん気持ち悪く思えてきちゃったんです」

「そんな学校があるんだ」

「あるんですよ」

「知らなかった」

 知らなくていいですよ、と理樹くんは苦々しげに言う。ずっと顔の上においていた右手を振って手のひらの水滴を振り落としてから、顔の水滴をぐっと拭ってまたおでこの上に当てた。

「最初からそうだったわけじゃないんです。でも、高三に上がって先生が開口一番、『一年後にお前たちは東大の門をくぐる』みたいなこと言い始めて。それで一気に冷めたっていうか」

「視野が狭い感じ?」

 わたしは、常連の二十代後半のサラリーマンが上司の愚痴を言うとき必ず口にする言葉をなんとなく思い出したので口にしてみる。あの人ほんと視野が狭くって話になんないんだよ。理樹くんはこちらを向いてそうそう! と大きく頷く。

「今まであんまり考えたことなかったんです、東大以外の道、とか。とりあえず東大行っとけば幸せになれるっていうか、いろいろ安泰でしょっていうぼんやりした認識のまま来ちゃったなっていう反省もあって。こう、あれもいいしこれもいいけど、東大もありかな、くらいで考えたらもう少し納得感も出るかなとか考えてて」

「そっか」

 賢い人も賢いなりに悩んだりするものなのか。そりゃそうだよな、テストの点が高いことと人生のやりくりが上手なことは別問題だもんな。わたしはお母さんみたいな人に引っかかってしまったお父さんのことを思い浮かべる。きっとお父さんはテストだけできたんだ。大学どこか知らないけど。

「……て、なんか一方的に話しちゃってすみません。この話でずっと家族と揉めてるんです。だから毎日家に帰るのが憂鬱なんですよね」

 語尾を濁らせながらそう言うなり、理樹くんはスラックスのポケットからしわしわのハンカチを出して顔を丁寧に拭い、そのあと手の甲もごしごしと拭いた。そろそろ三茶だ。信号の向こうに駅が見える。

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