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 三茶ついたけどここで終わりにする? と萠さんは遠くに見える三軒茶屋駅を指差しながら尋ねた。僕はいやいや、もうちょっと歩きましょうよと返す。僕が一方的に自分語りをぶつけただけで解散するのはなんだかひどく暴力的に思えた。

「萠さんがもう歩くの嫌でしたら従いますけど」

「なにそれちょっと嫌味ったらし」

 萠さんは歩き始めたときよりちょっと打ち解けたようにふにゃっと笑って青信号を渡る。駅前には家路を急ぐ人たちが大勢、さっきの僕みたいに役に立たない傘を無理やりさして歩いている。びしょぬれのままさっさと駅を過ぎたのは僕たちだけだった。

「どうせホームまで行けてもずっと待ちぼうけなのにね」

 萠さんはレインコートの下に徐々に汗をかき始めていて、ぺたぺたと肌に張り付くそれを鬱陶しそうに剥がしては、腕を振ったりしてどうにか風を通そうと必死になっている。

「理樹くんはさあ」

 名前を呼ばれて隣に顔を向けた。レインコートのフードを両手のきらきらした指先でちんまりと掴みながら、萠さんは言う。理樹くんは、自分の人生なのに家族からあーだこーだ言われるの? やじゃないの?

 僕は面食らって一瞬口をつぐみかけ、こう問うた。

「逆に聞きますけど、萠さんもいろいろ心配されたり、こうしたらああしたらって、言われたりしてるんじゃないんですか」

「ないないない」

 フードを掴んでいた指先がちろちろ、と小さく揺れる。

「うちは個人主義だから。全部自由だけど自己責任ってやつ」

 個人主義。自己責任。彼女の口から出てきたそれに背中がひやっとする。柔らかくて甘いパンの中に一粒だけ真っ黒な胡椒の塊が入っているみたいだ。

「うち親が離婚してるんだけどね、それでお父さんとはもう何年か会ってないの。どこにいるのかも教えてくんなくて。でも多分養育費? とかは貰ってるっぽいからフツーに生きてはいるんだと思うんだけど」

 彼女は思案するように目をくるりと上へ向ける。

「わたしほんとはお父さんと一緒がよかったんだ。頭良くて仕事もバリバリしてて、話も面白くて、いろんなとこ連れてってくれて。頭ごなしに怒んないし、めっちゃいいパパだったと思うんだよね」

 意外だ。高卒フリーターの両親と聞けば、だいたいは同じような人生を歩んでいる人物を想像するものだから。貧困の再生産。僕はこの前読んだ本のタイトルを思い出そうとする。

「だからお父さんに会いたいんだ。日本全国探し回って、会って、たくさん話して、また家族にしてもらいたい」

 僕は萠さんの目の端に涙のようなものが浮かんでいるのを発見する。すると彼女は目を閉じて、続ける。

「いや、嘘」

「……嘘?」

「ほんとはぶっ殺してやりたい」

 僕たちのすぐ横を大型トラックが走り抜ける。水溜りを勢いよく踏みつけて、ざざあっ、と派手な音を立てる。僕と彼女の下半身を、濁った色の泥水がべたべたに汚した。

「みんなに嘘ついてるんだ。お父さんにまた会いたい、家族になりたいって言ってんの。そしたら大体の人は同情してくれるから、それで全部イージー。お母さんも、店長も、タカトウさんも、みんな騙されちゃって。まあそれでいいんだけどさ」

「……」

「でもどうやって見つけたらいいかとか、どう殺してやるのがいいのかとか、殺してからどうやったら逃げ切れるのか、とかさあ、何にも考えてないわけ。つまりわたしも殺してやるって念じながらその覚悟はできてないんだよね」

「……」

 だから、これもウソ! そう高らかに言い放って、彼女は両手を上げる。強風と入れ替わるように激しくなりだした雨を乞うように、顔を上げてふらふらと回り出す。

「毎日毎日つまんないなー。ただ生きてるだけって感じ。楽しいこともむかつくこともあるけど、お風呂はいって布団の中に入ったらぜんぶばちんって消えてなくなる。わたし今、お父さんに会いたいってことだけを楽しみに生きてるの。会ってめちゃくちゃに殺してやりたい。わたしをちゃんと愛さなかった罰だ」

 僕はその言葉の中に折り重なるようにして隠された彼女の本音を嗅ぎ分けられない。僕に聞かせたくて、でも聞かせたくなくて、彼女は回る。

「仕方ないよ。起きちゃったこと、できちゃった子ども、なにもかも取り消せない。だからわたしがお父さんを殺して、もしかしたら捕まっちゃって、死刑とかになっちゃったりしても、まあ、全部自己責任だよ。わたしが悪い。それより毎日なんのために生きてるのかわかんなくなっちゃうほうが怖いの」

 そのとき僕は思い出す。この前読み終わった本のタイトル。『殺人犯の横顔』。かつて世間を賑わせた無差別殺人犯の生育環境について、新聞記者である筆者による緻密に調査・考察が行われたベストセラー。誰しもその「殺人犯」になり得る日本の社会構造の改革を説いて読者の共感を得ていた。読者は、しかし、自分は「それ」とは無縁に生きて死ぬのだろうと信じて疑わない。

「萠さん」

 僕はどうしたらいいのかわからない。体がぎこちなく硬直する。わからないなりに僕は考える。

 萠さんは空を仰ぐのをやめてこちらに向き直った。

「ん?」

「また、……また、会いましょう」

「え?」

 萠さんは拍子抜けしたような顔をして前髪を払った。

「相談、乗ってください。僕、こんな変な悩み、他の誰にも話せません。誰とも繋がってない、萠さんにしか、話せないんです」

 降り注ぎ続ける雨のせいで、萠さんの眉は薄く途切れ、頬の赤みも消えている。ただはっきりと主張する睫毛の長さだけが奇妙に浮き出ている。

「あったりまえじゃん。ぜんぜんいーよ」

 萠さんはにっこりと笑う。少し前までの、危うく巻き込まれそうなほどに強い引力を持った呪詛を放っていた女性は一瞬のうちにどこかへ消えていた。

 ホッとした僕は、じゃあ、もう少し頑張って歩きましょうか、と言う。萠さんは元気に頷いて、しばらく一緒に歩き、桜新町を過ぎたあたりで、つかれたからファミレスで休んでから帰るから理樹くんは先に行きな、と一息で言うと、たかたかと走っていなくなってしまった。

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