8 / 9

.

 

 母親と二人きりの車内は気まずくて、心の底から苦手だ。後部のロングシート、運転席の真後ろにあたる座席でシートベルトを締めながら、僕は気が狂うほど繰り返されてきた母親の小言に身構える。

 

 萠さんと二人で台風の中を歩いたあの日の翌々日、台風が無事過ぎ去って登校した僕に待ち受けていたのは二つ目の「台風」だった。

 僕が萠さんと二人で歩いているところを、クラスメイトに目撃されたらしい。まあ、考えてみれば当然のことだ。うちの学校の最寄駅は田園都市線の池尻大橋駅と京王井の頭線の駒場東大前駅のふたつで、約半数の生徒が池尻から登下校している。もちろんあの日も池尻から帰宅した生徒が(当初そうしようとしていた)僕を含めて多数いて、そのうちの一人がうちのクラスにもいた、という話だ。名前を別所という。

 別所は僕とは生きてる階層の違う、派手な感じの奴だ。すらっと背が高くて手足も長く、陸上部でいつもベスト4だか8だか、そういうのに入っている。髪も染めて服装も凝っていて、かわいい彼女とか、あとはまあ、それに準ずるような人もたくさんいる、らしい。端的に言えば、セフレ、のような人たち。うちの学校は男子校という特殊な環境もあってか、経験人数や彼女の有無、セフレ的な人を何人侍らせているか、みたいなステータスがお互いの「力」を比べ合う指標となっていた。僕や多崎のような、「全部ゼロ」の人間はそもそもその土俵にすら上がらないから、かえって馬鹿にされたりすることはなかったけれど、あの派手なグループのなかで行われる、何人斬りだとか、何人捨てたとか、孕ませたとか、堕ろさせたとか、そういうグロテスクな会話は僕たちの耳にも否応無しに入ってくる。それが日常となってしまっている状態に、あまり疑問も抱かなくなっていた。

 別所は僕がなんだかセクシーで派手な感じの美女と二人で歩いているところを目撃したと言って、なんだよなんだよお前も結構やるじゃん、みたいなことを言いながら僕に寄ってきて肩を組んだ。

「真っ昼間から見せつけてくれるじゃん」

 そう言ってさらに顔を近づけてくる。僕は息ができない。刺激の強い香水の香りがした。

「えーなにいつから? そういうの俺らにも言ってくれなきゃ困るんだけど?」

 僕は曖昧に笑う。別に付き合ってるわけじゃないし、友達なのかも怪しい。でも、そういう曖昧で不確かな関係を、「異性」である萠さんと結んでいることを、きっと彼らは理解できない。別所たちにとって女性は「数」であり、「トロフィー」だ。「穴」であり、「ゴミ」なんだ。僕は暗澹たる思いを胸にしまいながら、知らない人だよ、道聞かれただけで、と、見え見えの嘘をつく。別所は明るく笑う。まるでテレビに出てくるイケメン俳優みたいに。

「ごめんごめん。別に奪おうとかとって食おうとか思ってないって。でもさ、あんまり美人で素敵な人だったから、友達とか紹介してもらえないかなーって、思っただけだって」

「いや、だから、知らない人なんだってば。別所には紹介できなくて悪いけどさ」

 飛び退くように別所の隣から抜け出すと、別所は小首を傾げて目を瞬かせる。その目線に、どこか胸糞の悪さを覚えた。

「……あー、そっか。眞島って『フェミ』だもんね。女性のジンケンを守ってあげてるわけだ」

 さすが理三の眞島くん、将来国の前線で働く男は違うわあー、と大声でひとりごちた別所はくるっと背を向けて自分の席に戻っていった。僕は浅い息を繰り返しながら目線を泳がせる。次の授業は化学、化学室に行かなきゃならない。リュックを開けて化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。僕は頭の中で同じ言葉を繰り返し続ける。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。手が信じられないほど激しく震えていた。動悸が激しい。心臓が口から出てしまいそうなほどに脈打っている。『フェミ』? なんだそれは。僕は今まで距離を感じていたことこそあれ、軋轢など微塵もなかった別所に強烈な怒りを感じ始めていた。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。今、この怒りをぶつけるべき正しい対象が分からない。方法だって、分からない。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。化学の教科書を探す。僕は必死になって化学の教科書とノートを探し出し、震える手を抑えるように抱きしめながら教室を出た。別所は自席で友人たちと、もう別の話題で盛り上がっていた。彼にとって誰かを侮辱することは、息をするほど自然なことなのだと、僕は理解した。

 

「瑞希ちゃんがあんなかわいそうな事故に遭って、亡くなっちゃったこと、理樹だってよく覚えてるでしょう。瑞希ちゃんは何も悪くないのに。あんなに狭くて視界の悪い道で六十キロもスピード出して突っ込んでくる車があるなんて、考えもしないわよ。私だって信じられない。今でも信じられないわ。でもそういうおかしな車っていうのは、いえ、おかしな運転手っていうのは、いつどこにいてもおかしくないの。理樹、あなたは瑞希ちゃんの分までちゃんと生きなきゃいけないんだから、お願いだから、変な道をふらふら歩くなんてことはもう二度としないで」

「……分かってるよ」

「分かってないからあんなことするんでしょう! 電車が止まってるならお母さんに電話すればいいの。池尻なんて三十分もあれば迎えに行けるんだから。本当はうちから駅までだって全部送り迎えしてあげたいくらいなのよ、それをあなたの我儘きいて我慢してあげてるんだから、これくらいいうこと聞きなさいよ、お願いだから、お願いだから……」

 母はぼろぼろと涙を流しながら、それでもハンドルを握り続けている。僕はその背中を見つめながら、うん、ほんとにごめん、と、小さくこぼした。

 僕は別所たちみたいな目線で、女性を見ることはできない。それは当然、僕が『フェミ』だからではない。彼らが揶揄するように使う『フェミ』であるところのフェミニストという存在の定義やもろもろは一旦置いておくとして、僕はそもそも女性に対してとくべつ性欲を抱かないのだった。小学校を卒業する頃、友達の間でこそこそと共有されるようになった「好きな女子」「かわいい女子」の話題に入ることができない僕を、僕自身が一番嫌悪していた。もちろん人として好きなクラスメイトや、仲の良い女子はいた。けれどそれを「好き」と表現するかといえば、なにか胸の中がモヤモヤとして落ち着かない。まるで仲間からつまはじきにされたような感覚を抱きながら、僕は自分が異常者なのかもしれないと本気で悩んだ。

 時は経って中学二年生の春、学習机を小学生向けのそれから大人向けに変えるため、一ヶ月ほど机を業者に渡すことになった。机の上に設置されているこまごまとした引き出しや棚、内蔵されている時計などを、すっかり外して色を塗り替え、シックでシンプルな机に生まれ変わらせるのだという。子供っぽい明るい木目調のそれが大人な色になって帰ってくると聞き、僕はわくわくしながら机の中に入っていたがらくたの整理に励んだ。ほとんど使っていなかった机上の小さな引き出しを確認すると、見覚えのない小さな紙切れが何枚も入っているのに気がついた。丁寧に折りたたまれたそこには「りきくんへ」とたどたどしいひらがなが書かれている。僕は紙切れを開く。

 そこで僕は思い出した。僕には好きな女の子がいたということを。

 みずき、という名前のその女の子は、幼稚園で一緒に過ごした同い年の子だった。さらさらとした長い黒髪をいつも低い位置でふたつに結っていて、それは小学校に上がっても変わらなかった。ぴかっと晒された丸いおでこがなんだかかわいくて、僕はみずきちゃんのおでこを触っては、彼女によく怒られていた。とても表情豊かで明るく、いつも友達に囲まれているような女の子だったと思う。彼女とは小学校は違っていたけれど、習い事の水泳や、夏休みのボーイスカウトなんかでよく顔を合わせていた。家が近所だったのも、僕たちがなんだかんだずっと仲が良かった理由なのだと思う。

 僕は、ちいさいガキんちょながら、みずきちゃんのことが好きだった。彼女は誰にでも優しく、いつもみんなのことを気にかける、お姉さんみたいなところがあった。そういうところが好きだった。まあ、小さい子どもが異性を好きになる理由なんて、それくらいものもだろう。とにかく僕はみずきちゃんが好きだったので、僕なりに少しずつアタックを仕掛けていた。

 週に一度ある水泳教室で、僕はみずきちゃんと一回以上話す、ということを自分に課していた。もともと仲の良い間柄だったから、彼女も喜んで話していた、ように思う。そしてある日、彼女から、どうやら彼女の学校で流行っているらしい、「おてがみこうかん」をしようと提案されたのだ。僕はめちゃくちゃ舞い上がった。そして、次の週から、僕たちは律儀に「おてがみ」を「こうかん」しあった。中身はなんの意味もない「いえーい」とか「こんにちは」とか、「みずきだよ」とか、あとはなんだかよく分からない絵とか、シールとか、そういう空白を適当に埋めるだけのものに終始していたけれど、僕は、彼女が自分のために毎週せっせと手紙を作ってくれることに、どこか「脈あり」を感じていたのだった。実際のところ、彼女がどう思っていたのかは、今更確かめようがないけれど。

 彼女が死んでしまった原因も、水泳教室だった。五月のあたたかい春の日、ゴールデンウイークが終わった次の週、水泳教室のバスに乗り遅れまいと走っていたみずきちゃんは、住宅街の狭い十字路で制限速度を破って六十キロ走行をしていた乗用車と衝突し、即死した。車に乗っていた老夫婦は僕の家のお隣さんだった。僕は彼女が死んでしまったことを受け入れられず、お葬式にも、彼女の家にお線香をあげにいくこともせず、ただひとり部屋の隅で泣いていた。そして老夫婦が逃げるように隣居を出ていったあと、僕はみずきちゃんのことをすっかり忘れることにして、平然と学校生活に戻っていった。

 でも、手紙だけは、捨てられなかったんだ。中二の僕はほんとうに彼女のことを忘れることができていた僕自身に驚嘆し、落胆した。そして、僕のなかの「女の子」は、瑞希ちゃんという初恋の女性とともに死んでしまったのかもしれない、と、結論づけた。

 元々過保護なところのある母親は、僕が瑞希ちゃんのことを思い出し、話題に出し始めたのと同じくらいの時期から、さらにその行動を激化させるようになった。僕がまた塾に通いだした中二の夏、母親は毎日のように車で送り迎えをすると言って聞かなかった。だから、僕は友人と塾の先生の愚痴や噂話をしながら帰宅する、なんていうありふれたことすら叶えることができなかった。今でも仲の良い多崎は、中等部の軟式野球部で一緒だった奴だ。僕は塾や学校の行き帰りに友情を育むことすら徹底して禁止され続けたのだった。

 瑞希ちゃんのようになってほしくない、瑞希ちゃんの分まで生きて欲しい。もう何年もの間繰り返され続けている母親の呪いのような懇願は、僕に反論する余地を与えない。車内で母に泣かれると、僕はその想いに巻かれて、窒息しそうになる。

 あの日、強風と豪雨が吹き荒れる中、結局溝の口まできて運休してしまった電車に足止めを食らって、僕は母親に電話をかけた。すぐさま車でかけつけた母は乗り込んだ僕の泥だらけのスラックスを見て「どうしたの」とだけ尋ねた。僕はこういうとき、上手い言い訳を思いつけない。正直に、池尻で全然電車に乗れなかったから二子玉までぶらぶら歩いたのだと告白すると、母はすーっ、と息を吸い込み、はあああああああ、と、長く息を吐いてから、もうその台詞を覚えてしまうほど聞かされた言葉をもう一度、噛んで含めるように懇切丁寧に、聞かされた。僕は泣きそうになる。僕の情けなさに、そして、母の頑なさに。

 

 九月のあの台風の日以来、僕は休日の自習室への往路まで車移動を強いられた。ミスを犯す度に締め上げがきつくなる。まるでDVみたいだ。帰路についてはもう深夜だから車通りもほとんどない、と母親を説得して一人行動を許されているけれど、これは大学に入っても続くのだろうか、と考える度に僕は頭がぐらりと重くなるのを感じる。

 父親との言い争いも平行線のままだった。東大以外はない。もう思い出すことが習慣になってしまいそうなほど、彼の毅然とした物言いは僕の耳から離れない。僕は半ば諦めている。いや、東大に入ること自体を強く嫌がっているわけではない。当初から、そうだった。僕が諦めているのは、彼らと「まともな対話」をすることだった。僕らのアメーバのように日々形を変える心について考えること。話すこと。まるでコンクリートでできた箱のなかでがっちり成形されたような人たちだと思う。父も、母も。

 いつもの道を通って藤が丘駅に着く。改札を抜け、エスカレーターを上ると、待合室の中には萠がいる。

 

「おー」

 僕は右手を上げて彼女に合図する。彼女も僕に気がついて小さく手を振った。最近吸い始めたアイコスのケースをいそいそとポケットにしまう姿が見える。

 いつも通り、待合室には僕たちしかいない。

「待った待った。待ちくたびれた~」

 萠はうーん、と伸びをしながら言う。ネイビーのショートトレンチコートが暖かそうだ。

「今日もお店に出るの?」

 萠が嫌だというので僕も敬語をやめていた。隣に座ってそう尋ねる。

「うん。しかも今日はもうひとつ仕事済ませてきた」

「…あー」

 萠はちょっと前から風俗的な仕事も始めたようだった。風俗、というものがどこまでなにをするのか、ということを僕は知らないけれど、なんとなく知ったかぶりしてしまったせいで詳細はわからないままだ。僕の曖昧な返答に萠はにやりとする。

「それそれ。今日のお客さんもイケメンだったよ。キモくない人ばっかり当たるからラッキー」

「怖いことされないうちにやめなよ」

「そだね」

 時々拍子抜けするほど素直だ。あの日以来、萠は恐ろしい顔を僕に見せない。それがいいことなのか悪いことなのか、僕には判断が付きかねている。

「でもおかげで順調にお金貯まってるんだよ。何にも考えないでとりあえず百万円貯めよーって思ってるんだけど、もう七十? とか八十? くらい貯まった」

「すごいね」

 普通のアルバイトすら経験のない僕は七十とか八十とかいう曖昧かつ大きな数字に漠然と圧倒される。でも、百万円が溜まってしまうと、彼女は父親を殺して犯罪者になってしまう。それだけはどうしても避けたい。ない知恵を絞って話題をひねり出す。

「そんなに貯金があったらさ、旅行とか、行ってみたら? 温泉とか、海とか、ほら秋の紅葉観に京都とか」

「理樹くんも来てくれるなら行くよ」

 彼女は僕が行けないと知っていてそういうことを言う。

「行けないって。他の友達誘いなよ」

「いないもん。友達。他に誰も」

「彼氏は?」

「いなーい」

 萠は唇を尖らせておどける。今はフリーでーす。

「理樹くんなら付き合ってもいいよ」

「まさか」

「そのまさか」

 電車が遠くからやってくるのが見える。僕は立ち上がる。

「嘘でしょ。もう分かってるよ」

「風俗やってるヤリマンは嫌いかい?」

「ねえ、そういうのやめなよ」

 萠もゆらりと立ち上がり、そだね、ごめん、と言う。

「理樹くんと付き合ったら、いつか別れたら会えなくなっちゃうもんね。そういうのやだよね」

 僕は頷く。

 丁度到着した列車の扉が開く。また他愛のない話をゆるゆるとつなげながら、二人は空っぽの最終電車に乗り込んだ。

​©︎ 2020 by APZ wani.