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「東大うかった?」

「先週言ったじゃん、試験日はまだ来週だって」

「あー、そうだっけ」

「そうそう」

 

 センター試験が終わった。結果は上々、ほぼ満点。国語で少し落としてしまったけれど、その辺りも含めて想定通りだった。結局僕は波風を立てないまま、東大に受かってしまいそうでいる。滑り止めで受けるセンター利用の大学もすべて合格圏内にあって、もう何もかも「うまく」いってしまいそうだった。

 東大の試験を一週間前に控えた今日も、僕は自習室に通っていた。ここまできたら、いつものペースを崩さないのが大事だ。先輩が皆そう言っていたのを見習って僕は重たいリュックを背負い、自習室に通い続ける。

 萠は派手な紫色をした、なんだかサイケなロゴのワッペンがついているダウンジャケットを羽織り、でもその下には薄着のきらきらしたブラウスとショートパンツを履いている。薄らあたたかい待合室の座席でふたり、いつものようにぼんやりと電車を待っていたら、彼女がなんでもないことのように切り出した。

「ねえわたし妊娠したんだよね」

 僕は口をぽっかりとあけて萠を見る。

「え、彼氏いたんだっけ」

「いない」

「じゃあ誰の」

 誰の。僕は言いながら、心の裏ですでに分かっている。彼女は唇を尖らせて言う。

「客の誰かじゃない? あのオヤジじゃなかったらいいな」

 僕は自分の世界と彼女の世界の境界線がさらにはっきりとしたのを感じる。そして、妊娠、ということが目の前の、同い年くらいの、彼女に、起こりうるのだと言うことそれ自体に恐れおののいていた。

 絶句して何も言わない僕をなだめるように萠は言う。お父さん殺すのやめた。

「百万円、貯まったんだけどな。しかもちょっと超えたくらい。百二十くらいかな。もう貯まってたの。でもね、やっぱり踏ん切りつかなくて。だって殺し方もまだ考えてない。だから一旦やめにする」

 僕は、萠が犯罪者になるのをやめてくれて嬉しいと思いながら、でも、これでいいわけがないとも思う。視界がぐらついて落ち着かない。

「わたしひとつ思ったことがあるんだ。子どもが生まれたら、わたしはお母さんになるわけじゃん? お母さん、っていうか、親? になったら、わたしもお父さんとかお母さんを許せるかもしれないじゃん。なんていうか、親の側のこともわかったら、何か変わるかもしれないじゃん」

 萠はその丸い瞳をぱち、ぱち、と瞬かせながら続ける。僕には分かる。これは萠が嘘をつくときの目だ。自分に、嘘をつくときの目。

「だから産んでみようかなって。まあラッキーなことにまだお母さんも元気だし、たぶんわたしがママになること喜んでくれるんじゃないかなって思うんだよね。お母さんだってデキ婚だったし、わたしの気持ちよく分かるんじゃないかな。援交相手の子どもができちゃってそのまま責任取らせて結婚だよ。お母さんとおんなじじゃん、わたし」

 援交相手? 風俗の客じゃなかったのか? 僕は複雑に絡み合う彼女の宣言めいた告白を解読することができないまま、胸を抑える。苦しい。このまま死んでしまいたいと思った。

「もしちゃんとお母さんとお父さんを許せたら、貯めたお金はぱーっと使っちゃうよ。旅行でも、美味しいご飯でも、かわいい家具でも、なんでもいい。わたしが苦しい思いして貯めたお金、その思い出ごと全部消すの。理樹くんのことも、わすれる」

 僕は顔を上げる。綺麗な萠の瞳が揺れる。

「なんか変な関係だったねわたしたち。友達でもないし、付き合ってもないし、セフレでもないし、客とホステスでもなくて。わたしはお父さん殺すこと暴露しちゃうし。理樹くんだって誰にも言えない悩み打ち明けちゃって。ばかみたい」

 解決するわけでもないのに。そんな。

「傷舐めあってあほらしいね。かなしいね。なんにも変わんないのに」

 そんなこと。

「でも赤ちゃんが生まれたら変わるかも。やっぱり命ってすごい。わたしたちがこうやってちびちび話し合って仲良くしてた関係も、全部ぶっこわしてくんだもん。わたし昔言ったでしょ、毎日毎日つまんないから、お父さんを殺すことだけ楽しみにして生きてるって」

 そんなこと言わないでくれ。

「これからはこの子を育てることを楽しみに生きるの。わたしの生きがい。そしたらお父さんのことだって殺さずに済むよ。わたしも死刑にならずに済む。ハッピーエンドじゃん」

「……いだろ」

「え?」

「ハッピーエンドなわけないだろ!」

 電車が来る。最終電車が、来る。

「子どもを生きがいにするな。子どもだって一人の人間なんだよ。持ち物みたいにするな。いくらお腹痛めて産んだからって、子どもは母親のものなんかじゃないんだ」

「理樹くん、」

 電車がすぐそこまでやって来る。速度を落として、この駅に止まる。目の前に、止まる。

「忘れないでよ。わたしの家の決まりは、個人主義。自分の責任は自分でとるの。だから誰にも邪魔させない」

 ね、だから起きて。萠はふらつく僕を両手で起こして、僕を列車に乗せる。車内に尻餅をつくように倒れこんだ僕に、ホームから萠が何かを投げてよこした。

「わたしはもう使わないから。お別れの挨拶がわりにあげる」

 ごとん、と重たい音がして、アイコスのケースが僕の腕の横に落ちた。

「ばいばーい。理樹くん。お幸せに」

 電車は発車した。

 

 徐々に速度を上げる電車の中、僕は立ち上がって窓の外の萠の姿を探した。彼女はもうこちらを向いておらず、ただ、僕がさっきまでいた場所を呆然と見つめているように見えた。枯れ木のように細長くみすぼらしい彼女の姿は、ふっくらとしたダウンジャケットがなければ見落としてしまいそうだった。僕は彼女の爛々とした目と矢継ぎ早に放たれる言葉を思い返していた。この子を産んだら変わる? お母さんになれば変わる? お父さんに抱いていた殺意も綺麗に消えるって? 馬鹿言うなよ。

 来週は東大の試験で、その来週からはもうなにもすることがない。僕はまた日曜日になったらあの待合室に行こうと決める。でも、と、僕は思う。分かってる。萠は永遠に現れない。そして、僕はきっと帰ってから部屋の隅で泣いて、泣いて、そして、最後には、彼女のことを忘れて、平然と大学生になる。分かっている。僕はそういう人間だということ、僕が一番分かっている。足元に転がったままのアイコスを拾う。使い方などわからない。それにまだ十八歳の僕は、あと二年これを使うことができない。白地にピンクゴールドの入ったその女性らしいケースをひっくり返すと、小さなポムポムプリンのシールが貼られているその隣に、黒いマッキーで「MEGUMU」と書かれているのが目に入った。僕はそのとき、萠という名前は本名だったのだろうということに思い至る。「僕の世界」では当然すぎるその事実に、僕は、それでも、顔をぐしゃぐしゃにしながら彼女の永遠に訪れない幸せを願った。

​©︎ 2020 by APZ wani.